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20: 世界@名無史さん 2010/03/25 17:44:21

張 献忠

張 献忠(ちょう けんちゅう)は、明末の農民反乱軍の指導者。

張献忠は嗜虐癖が異常に強く、残酷な殺戮を好んだ。彭孫貽の『平寇志』によれば、崇禎8年(1635年)には安徽省の鳳陽県で街に火を放ち数万人を殺戮し、同じ年に安徽省和州を攻撃した際も虐殺を行ったとされる。

四川在住者は「屠蜀」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、ほぼ全滅状態になった。清朝の史料が正しいのなら、大順3年(1646年)に張献忠が西京から落ちのびる時に自暴自棄となり空前の殺戮を行い、40万人を数えた成都の人口はわずか20戸にまで減り全滅同様になった。

「天府之国」と称された四川省は徹底的に破壊され、300万人ほどの人口が8万人となった。『明會要』巻五十によれば万暦6年(1578年)に人口310万2073人だった四川は、嘉慶『四川道志』巻十七によれば、康熙24年(1685年)には1万8090人となっていたという。

大虐殺にまつわる逸話としては、以下のものがある。

ある時、虫の居所が悪かった張献忠は、部下に命じて自分の息子や妻妾たちを皆殺しにした。
翌日その事を忘れて、息子や妻妾たちを呼び出そうとしたのだが、現れるはずも無い。自身の行いを思い出した彼は「何故止めなかった!」と部下を皆殺しにした。

友達を招き、宴会を開いて歓待した。しかし、友人が帰路についたあとで、刺客を放って殺させた。
そして持ってこさせた首を長持ちに入れて持ち運び、暇な時には、集めた友人たちの首を並べてママゴト宴会を楽しんだ。

役人を集め、その前に犬を連れ出すと、犬が臭いを嗅いだ者を殺した。これを「天殺」と呼んだ。

僧侶には銀10両、小坊主には6両お布施を出すとの触れを発した。それを信じて集まった数万人の僧侶と小坊主を10人ごとに縄で縛り、皆殺しにした。

科挙を行うとの触れを発し、集まってきた知識人のうちで身長120cm以上の者を殺した。数万人の学生のうち、助かったのは子供2人のみだった。

女性を殺すと、纏足された足のみを切断して集め、山のように積み上げた。しかしその頂上にできるような、いい足が見当たらない。愛妾が自身の足を冗談で見せたところ、すぐさま彼女の足を切断し、頂上に乗せて完成させ、悦に入った。

人体のツボの位置を示した人体模型を手に入れ、それを白い紙で覆ってツボの位置が見えないようにした。
その上で医師たちを集め、「この人形のこのツボを示せ!」と命じた。少しでも間違えた者は、容赦なく殺した。

四肢の切断を「匏奴」(ほうど)、人体を背骨の位置で縦割りに切り離すのを「辺地」、赤子を投げ上げ、槍で貫くのを「雪鰍」(せっしゅう)または「貫戯」(かんぎ)と呼んだ。

生きた人間の生皮を剥ぎ、1日近くの間苦しめて殺した。もし皮剥ぎの最中や執行直後に死んだ場合、あるいは剥がした皮に少しでも肉片が付着していた場合は、執行人が不手際の咎で皮剥ぎに処された。

民間に伝わったところによれば、張献忠は虐殺後、成都の中心に「七殺碑」と呼ばれる石碑を建立したとされる。

天生万物以養人 人無一物以報天 殺殺殺殺殺殺殺