1 名前: THE FURYφ ★ [] 投稿日:2009/07/05(日) 00:43:11 ID:???0
抜けそうな打球を、ファーストミットを思いっきり伸ばして捕った主将の箱崎裕樹君(3年)は、
素早く体勢を立て直し、左投げで本塁に鋭い球を返した。ノックを受ける動きはいつも軽快だ。
「あの時、野球をやめなくてよかった」。高校最後の夏を前に箱崎君は左投げに転向するまでの
日々に思いを巡らせた。
小学生の時、投手だった。思いっきり投げ込み、三振を奪うのが楽しくて仕方なかった。
だが6年生の終わりごろ、右ひじに痛みが走った。病院で軟骨が剥離(はくり)していると
診断された。中学1年で手術を受けた。「投手を続けるなら、ひじの保証はできない」。
医師の忠告に従い、中学では一塁を守った。
因島高校では1年生でレギュラーになった。広島大会が終わった後のことだった。
右ひじの違和感はだんだん大きくなり、再び痛みに変わった。軟球より重い硬球は、
想像以上にひじに負担をかけていたようだった。医師は「完治はしない」と告げた。
投手を断念しても、野手として頑張ってきた。だが、もう野球そのものができないのではないか――。
先が見えない不安から、夏休みはほとんど練習に出ず、スーパーで商品を棚に並べる
アルバイトをしていた。「投げられないなら野球をやめよう」。そんな思いにさいなまれた。
捕手の山本大介君(3年)は、小学校で箱崎君とバッテリーを組み、中学でもチームメートだった。
箱崎君は「チャンスで打つし、ピンチで抑える」すごい選手だった。因島に入学した時、
「2人でチームを強くしよう」と誓い合った。
だから、箱崎君の気持ちが痛いほどわかった。「野球をやめるな」なんて軽々しく言えなかった。
練習後に同じスーパーでアルバイトをしながら、「この先どうなるんかな」と2人で答えの出ない
問いを繰り返した。
箱崎君は考えた。「やめて、何をしよう」。そう自問した時、自分は野球が大好きだと気づいた。
仲間と試合に勝つ喜びは何物にも代え難かった。「右で投げられないなら左だ」
>>2-以降に続く
2 名前: THE FURYφ ★ [] 投稿日:2009/07/05(日) 00:43:26 ID:???0
2学期。箱崎君はグラウンドに戻っていた。
最初は山なりのボール。コースもばらばら。下手からトスした方が早く、確実だった。
練習が終わっても、チームメートにキャッチボールの相手を頼んだ。帰宅後もタオルで
シャドーピッチングを繰り返した。インターネットを検索し、どこの筋肉を鍛えればいいかを調べた。
手応えを感じたのは11月ごろだ。グラウンドと平行なボールが投げられるようになった。
「まだ違和感はあるけど、行ける」
筋トレにも励んだ。冬を越し、左腕は右腕と同じくらいの太さになった。送球はさらに鋭くなった。
「もうチームに迷惑はかけない」。高2になる少し前、左利き用のファーストミットを買った。
2年生の広島大会ではスタメンで出場するほどになった。
野球部長の得能正明先生は左投げへの転向を見守っていた。「不動の4番。投げられなくても
グラウンドにいるだけでもいい。チームに必要な戦力だった。ぜったいに続けてほしいと思っていた。
左への転向は想像を超えていた」と明かす。
「ゼロから野球を始めるようなものでした」。箱崎君は振り返る。右を100とすると、
左は80〜90くらいの技量だという。「あきらめなかった自分は間違ってなかった」。
今は自信を持っていえる。そして「仲間たちと1試合でも多く野球をしたい」。