■【高校野球】右で投げられないのなら左で・・・ 「あきらめなかった自分は間違ってなかった」 因島・箱崎裕樹選手
コピペ投稿者:名無しさん
コピペ投稿日時:2009/08/15 12:35
コピペ投稿日時:2009/08/15 12:35
1 名前: THE FURYφ ★ [] 投稿日:2009/07/05(日) 00:43:11 ID:???0
抜けそうな打球を、ファーストミットを思いっきり伸ばして捕った主将の箱崎裕樹君(3年)は、 素早く体勢を立て直し、左投げで本塁に鋭い球を返した。ノックを受ける動きはいつも軽快だ。
「あの時、野球をやめなくてよかった」。高校最後の夏を前に箱崎君は左投げに転向するまでの
日々に思いを巡らせた。
小学生の時、投手だった。思いっきり投げ込み、三振を奪うのが楽しくて仕方なかった。
だが6年生の終わりごろ、右ひじに痛みが走った。病院で軟骨が剥離(はくり)していると
診断された。中学1年で手術を受けた。「投手を続けるなら、ひじの保証はできない」。
医師の忠告に従い、中学では一塁を守った。
因島高校では1年生でレギュラーになった。広島大会が終わった後のことだった。
右ひじの違和感はだんだん大きくなり、再び痛みに変わった。軟球より重い硬球は、
想像以上にひじに負担をかけていたようだった。医師は「完治はしない」と告げた。
投手を断念しても、野手として頑張ってきた。だが、もう野球そのものができないのではないか――。
先が見えない不安から、夏休みはほとんど練習に出ず、スーパーで商品を棚に並べる
アルバイトをしていた。「投げられないなら野球をやめよう」。そんな思いにさいなまれた。
捕手の山本大介君(3年)は、小学校で箱崎君とバッテリーを組み、中学でもチームメートだった。
箱崎君は「チャンスで打つし、ピンチで抑える」すごい選手だった。因島に入学した時、
「2人でチームを強くしよう」と誓い合った。
だから、箱崎君の気持ちが痛いほどわかった。「野球をやめるな」なんて軽々しく言えなかった。
練習後に同じスーパーでアルバイトをしながら、「この先どうなるんかな」と2人で答えの出ない
問いを繰り返した。
箱崎君は考えた。「やめて、何をしよう」。そう自問した時、自分は野球が大好きだと気づいた。
仲間と試合に勝つ喜びは何物にも代え難かった。「右で投げられないなら左だ」
>>2-以降に続く
2 名前: THE FURYφ ★ [] 投稿日:2009/07/05(日) 00:43:26 ID:???0
2学期。箱崎君はグラウンドに戻っていた。 最初は山なりのボール。コースもばらばら。下手からトスした方が早く、確実だった。
練習が終わっても、チームメートにキャッチボールの相手を頼んだ。帰宅後もタオルで
シャドーピッチングを繰り返した。インターネットを検索し、どこの筋肉を鍛えればいいかを調べた。
手応えを感じたのは11月ごろだ。グラウンドと平行なボールが投げられるようになった。
「まだ違和感はあるけど、行ける」
筋トレにも励んだ。冬を越し、左腕は右腕と同じくらいの太さになった。送球はさらに鋭くなった。
「もうチームに迷惑はかけない」。高2になる少し前、左利き用のファーストミットを買った。
2年生の広島大会ではスタメンで出場するほどになった。
野球部長の得能正明先生は左投げへの転向を見守っていた。「不動の4番。投げられなくても
グラウンドにいるだけでもいい。チームに必要な戦力だった。ぜったいに続けてほしいと思っていた。
左への転向は想像を超えていた」と明かす。
「ゼロから野球を始めるようなものでした」。箱崎君は振り返る。右を100とすると、
左は80〜90くらいの技量だという。「あきらめなかった自分は間違ってなかった」。
今は自信を持っていえる。そして「仲間たちと1試合でも多く野球をしたい」。
コメント一覧
リアル吾郎君か
『○○君、投球数160球の熱血投球!!』
みたいな感じで煽るのはもう辞めた方が良いと思う。
MAJORか?
逆手で投げるだけなら、そんなに苦労せず塁間くらいまではいける。
ただ、球際のグラブ捌きだとか、スローイングまでのステップワークだとか
体捌きの部分はそんな簡単に身に着かないよ。
中学時点で、「吾郎の守備が上手い」って設定は嫌いだったな。
吾郎は天才だから許されるんだよ。
きっと首を反転させることで
体裁きのハンデを克服したんだな
すごく…
高一の時一緒に野球してたww辞めたけど
あれは左から右だけど。
もともと右だったのを左に矯正されてたから元に戻っただけなんだがな。
ゼロか80〜90かどっちだ?