以下は、調査捕鯨の母船、日新丸に乗っていた人から聞いた話。
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東日本大震災の後、未だ大混乱していた四月初旬、陸上交通があちこちで寸断されている時期に
大量の支援物資を積んだ、ある大型船が仙台湾に突入した。
その名も「日新丸」。
南極で調査捕鯨をやっている船団の母船である。
その名前には聞き覚えのある人も多いだろう。
毎年、シーシェパードに攻撃されて死傷者を出している、あの日新丸のことである。
3.11の後、捕鯨船団は日本に帰ってきた。
母船日新丸は東京に入港し、調査で得た鯨の肉を降ろした後、数千トンの支援物資を積み込んで再び出港した。
行き先は東北。
なにせ津波の後、港湾施設も壊滅している。
日新丸のような大型船が停泊可能な保証は全く無かったらしい。
でも、彼らは出発した。
震災直後、関東から東北地方への陸上ルートは鉄道や高速道路が各所で分断されていた。
四月初旬の時点では、陸上はある程度の輸送ルートが復旧確保されつつあった。
東北自動車道は、公共事業関連の大型車が最優先されて通行許可が出ていたが、まだまだ全く足りない。
海上交通は陸上ルート以上に壊滅的であり、トラックとは桁が二つも三つも違う能力を持っているはずの
大型貨物船やタンカーも、東北の港には入港出来ずにいた。
港湾施設が津波で破壊されており、着岸出来ないこと、さらには東北沿岸には海上に漂流物が多く、
船が接近すればスクリューに吸い込んで航行不能になる危険があったかららしい。
しかし、南極から帰ったばかりの捕鯨母船日新丸は、その仙台湾に突入した。
大量のガソリンと食料・衣類や各種資材を満載して。
南極ではシーシェパードの攻撃にさらされ、負傷者も出していた。
日本のマスコミも、毎年恒例のシーシェパードの攻撃などいまさらニュースバリューもなく、たいして報道もされていなかった。
半年に及ぶ極地での航海に疲れ切って、しかし自分のやるべき任務を果たして帰ってきた捕鯨船員たちは、
帰国途上に発生した大震災の被災者を支援するために、帰国するや否や、その足で東北に向けて再び出港したのだ。
帰りを待つ家族たちの顔も見ないまま、昼夜を徹して大量の支援物資の積み込み作業を行い、安全な航路も確保されていない宮城に向けて。
被災地周辺の港はどこも壊滅していた。
入港して着岸出来る港などどこにもなく、それどころか沿岸に接近することすら船にとって危険きわまりない状況だったらしい。
しかし、彼らはガレキの山が漂流する仙台湾に突入したのだ。
突入したその日、日新丸のブリッジでは、海を覆い尽くす漂流物の間を縫って航行していた。
ブリッジからの死角になる船のへさきの直下を確認するため、へさきには防寒服を着た航海士が昼夜を通して監視に立っていたそうである。
それでも陸に近づくにつれ漂流物の密度が高くなり、日新丸のような大型船が航行出来る状況ではなくなってきた。
その時、その人がブリッジでつぶやいたそうだ。
「これはもう危険やなあ。いけるかなあ。」
隣で船長がニヤリと笑った。
その後ろでは機関長が言った。
「南極を埋め尽くすの氷の間を、この船長はいつも船を走らせて来たんだ。沈ませはせんよ。」
「スクリューに何か絡んだらどうするって? はっはっは、一万馬力を舐めないでくれ。私の部下たちは優秀なんだ。」
そして日新丸は仙台港に到着した。
仙台湾航行中に漂流していた漁船の網をスクリューに巻き込んでしまい、大損傷を受けてはいたが、それでもエンジンは止まらず、辿り着いていた。
津波で崩壊した岸壁に、船長は神がかり的な操縦で日新丸を停止させた。
船を岸壁に固定させる施設も崩壊している中、港湾施設の人たちがすべて人力で船を岸壁に繋いだらしい。
日新丸から大量の物資が陸上に運ばれた。
このことは、マスコミには全く出なかった。
しかし、同様のことは、ほかにも様々な場所で無数にあったことであろう。そんな状況だったのだ。まさに国難だったのだ。
日新丸はしかし、スクリューを破損しており、再び仙台港を出港出来るか微妙だったらしい。
港に停泊中、昼夜を徹して応急修理をした後、日新丸は母港である広島まで帰っていったという。
仙台湾を出て行く際にも、突入時と同じ危険があったことであろうが、その話までは聞かなかった...
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東日本大震災の後、未だ大混乱していた四月初旬、陸上交通があちこちで寸断されている時期に
大量の支援物資を積んだ、ある大型船が仙台湾に突入した。
その名も「日新丸」。
南極で調査捕鯨をやっている船団の母船である。
その名前には聞き覚えのある人も多いだろう。
毎年、シーシェパードに攻撃されて死傷者を出している、あの日新丸のことである。
3.11の後、捕鯨船団は日本に帰ってきた。
母船日新丸は東京に入港し、調査で得た鯨の肉を降ろした後、数千トンの支援物資を積み込んで再び出港した。
行き先は東北。
なにせ津波の後、港湾施設も壊滅している。
日新丸のような大型船が停泊可能な保証は全く無かったらしい。
でも、彼らは出発した。
震災直後、関東から東北地方への陸上ルートは鉄道や高速道路が各所で分断されていた。
四月初旬の時点では、陸上はある程度の輸送ルートが復旧確保されつつあった。
東北自動車道は、公共事業関連の大型車が最優先されて通行許可が出ていたが、まだまだ全く足りない。
海上交通は陸上ルート以上に壊滅的であり、トラックとは桁が二つも三つも違う能力を持っているはずの
大型貨物船やタンカーも、東北の港には入港出来ずにいた。
港湾施設が津波で破壊されており、着岸出来ないこと、さらには東北沿岸には海上に漂流物が多く、
船が接近すればスクリューに吸い込んで航行不能になる危険があったかららしい。
しかし、南極から帰ったばかりの捕鯨母船日新丸は、その仙台湾に突入した。
大量のガソリンと食料・衣類や各種資材を満載して。
南極ではシーシェパードの攻撃にさらされ、負傷者も出していた。
日本のマスコミも、毎年恒例のシーシェパードの攻撃などいまさらニュースバリューもなく、たいして報道もされていなかった。
半年に及ぶ極地での航海に疲れ切って、しかし自分のやるべき任務を果たして帰ってきた捕鯨船員たちは、
帰国途上に発生した大震災の被災者を支援するために、帰国するや否や、その足で東北に向けて再び出港したのだ。
帰りを待つ家族たちの顔も見ないまま、昼夜を徹して大量の支援物資の積み込み作業を行い、安全な航路も確保されていない宮城に向けて。
被災地周辺の港はどこも壊滅していた。
入港して着岸出来る港などどこにもなく、それどころか沿岸に接近することすら船にとって危険きわまりない状況だったらしい。
しかし、彼らはガレキの山が漂流する仙台湾に突入したのだ。
突入したその日、日新丸のブリッジでは、海を覆い尽くす漂流物の間を縫って航行していた。
ブリッジからの死角になる船のへさきの直下を確認するため、へさきには防寒服を着た航海士が昼夜を通して監視に立っていたそうである。
それでも陸に近づくにつれ漂流物の密度が高くなり、日新丸のような大型船が航行出来る状況ではなくなってきた。
その時、その人がブリッジでつぶやいたそうだ。
「これはもう危険やなあ。いけるかなあ。」
隣で船長がニヤリと笑った。
その後ろでは機関長が言った。
「南極を埋め尽くすの氷の間を、この船長はいつも船を走らせて来たんだ。沈ませはせんよ。」
「スクリューに何か絡んだらどうするって? はっはっは、一万馬力を舐めないでくれ。私の部下たちは優秀なんだ。」
そして日新丸は仙台港に到着した。
仙台湾航行中に漂流していた漁船の網をスクリューに巻き込んでしまい、大損傷を受けてはいたが、それでもエンジンは止まらず、辿り着いていた。
津波で崩壊した岸壁に、船長は神がかり的な操縦で日新丸を停止させた。
船を岸壁に固定させる施設も崩壊している中、港湾施設の人たちがすべて人力で船を岸壁に繋いだらしい。
日新丸から大量の物資が陸上に運ばれた。
このことは、マスコミには全く出なかった。
しかし、同様のことは、ほかにも様々な場所で無数にあったことであろう。そんな状況だったのだ。まさに国難だったのだ。
日新丸はしかし、スクリューを破損しており、再び仙台港を出港出来るか微妙だったらしい。
港に停泊中、昼夜を徹して応急修理をした後、日新丸は母港である広島まで帰っていったという。
仙台湾を出て行く際にも、突入時と同じ危険があったことであろうが、その話までは聞かなかった...
コメント一覧
米1みたいな奴はダニに噛まれてしね
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/gyosei/110325.html
漢だな
泣けた
おっぱいばいんばいーん
無駄に文章量水増ししていて読む気が失せた
あれのせいで知り合いが発狂して未だに精神病院
鯨を助けるために人間を殺す者
この差はいったい何だろう
Sea Shepherd is mad to kill human beings to help the whale.