家庭医として、90歳の祖母と、彼女自身に対する今後の終末期ケアについて本日話し合った。そのことは5年前に亡くなった祖父とのこと重なっていた。
その際に私は自分の患者に対する接し方ががらりと変わるような経験をしたのだ。
当時祖父は糖尿病や心臓病を抱えて徐々に具合が悪くなっていて、
最後の六ヶ月は病院と介護施設との間を何往復もしていた。
ある日、やはり今日と同様に今後の終末期ケアについて祖母を交え祖父と話し合った。
祖父は人工呼吸器につながれたり、心臓マッサージによる蘇生を拒否し、
透析などはそれが苦しみを和らげるような処置なら受け入れると明かした。
そして、患者の意思決定代理人となる祖母にそれを確認するため、
もし今後祖父の具合がさらに悪くなり心停止に至るようなことになったら
医師にどうして欲しいか聞いてみた。
祖母は言った:「そうねえ、もちろんおじいちゃんが少しでも長生きするなら
どんな治療でもして欲しいわ」
私は自分の耳を疑った。祖母は今までの祖父との会話を全く聞いていなかったというのか?
改めて祖母が、祖父の望みをどのように理解しているのか聞いてみたところ、
祖父の望みをきちんと答えた。
ならなぜ、と聞くと祖父のことをとても愛しているので、そのまま逝かせたくないとの答え。
「おじいちゃんが一日でも長く一緒にいてくれることが私にはとても大事なことなの」、
と祖母。
全身状態を考えると蘇生措置の成功確率は低いこと、
よしんば成功したとしてもライフサポートを必要とし、
家に帰れることはないであろうということも話をしたが、祖母の意志は変わらなかった。
そこで祖父に向い、
「おばあ様は医師にどんな措置でも、それがおじい様の意志に反することでも
してほしいとおっしゃっています。
そうですよね、おばあ様?」
「そうよ」
「おじい様、それでよろしいのですか?」
「もちろんじゃ。わしはいつ死んでもかまわん、準備は出来ておる。
が、もしそのような治療を頼むことで、かみさんが満足できればそれはそれでいいんじゃ。
それがかみさんの望みなら、それはわしの望みでもある。
なぜなら、わしはかみさんを愛しておるからな」
私は千の雷に打たれたような衝撃を受けた。
私はそれまで患者の望みについて遺される家族がそれを尊重し、
意見を一致させることが重要だと思っていたが、この体験はそれを根底から覆した。
祖母の願いは祖父の願いと違っていたが、
それは必ずしも祖父の望みを尊重していないからというわけではないのだ。
終末期ケアにおいて残されれる家族の望みは無視されがちだ
(訳注:日本とはかなり事情が違います)。
それ以来私はこの件を心の片隅において患者と接するようになった。
遺される家族にも聞くようになった。患者の意志についてどう思うか、
何が彼らにとって重要なのか、そしてそのことが如何に意思決定に影響するか。
患者やその家族との話を終える前に、彼らが同じ地平に立っているか確認するようになった。
その一ヵ月後、祖父は介護施設で息を引き取っているところを発見された。
祖母の望みどおり心肺蘇生が行われたが蘇生はしなかった。
祖母は、祖父に最後のチャンスが与えられたことを知り、少し気が晴れた、
といった。
今日の祖母との会話で祖母は言った。
死ぬのは怖くないし、天国で祖父と会えるのを楽しみにしている、と。
そして「チューブや点滴だらけにされるのはいやだけど、
もし息子がそうして欲しいというのならそれでもいいわ」
その際に私は自分の患者に対する接し方ががらりと変わるような経験をしたのだ。
当時祖父は糖尿病や心臓病を抱えて徐々に具合が悪くなっていて、
最後の六ヶ月は病院と介護施設との間を何往復もしていた。
ある日、やはり今日と同様に今後の終末期ケアについて祖母を交え祖父と話し合った。
祖父は人工呼吸器につながれたり、心臓マッサージによる蘇生を拒否し、
透析などはそれが苦しみを和らげるような処置なら受け入れると明かした。
そして、患者の意思決定代理人となる祖母にそれを確認するため、
もし今後祖父の具合がさらに悪くなり心停止に至るようなことになったら
医師にどうして欲しいか聞いてみた。
祖母は言った:「そうねえ、もちろんおじいちゃんが少しでも長生きするなら
どんな治療でもして欲しいわ」
私は自分の耳を疑った。祖母は今までの祖父との会話を全く聞いていなかったというのか?
改めて祖母が、祖父の望みをどのように理解しているのか聞いてみたところ、
祖父の望みをきちんと答えた。
ならなぜ、と聞くと祖父のことをとても愛しているので、そのまま逝かせたくないとの答え。
「おじいちゃんが一日でも長く一緒にいてくれることが私にはとても大事なことなの」、
と祖母。
全身状態を考えると蘇生措置の成功確率は低いこと、
よしんば成功したとしてもライフサポートを必要とし、
家に帰れることはないであろうということも話をしたが、祖母の意志は変わらなかった。
そこで祖父に向い、
「おばあ様は医師にどんな措置でも、それがおじい様の意志に反することでも
してほしいとおっしゃっています。
そうですよね、おばあ様?」
「そうよ」
「おじい様、それでよろしいのですか?」
「もちろんじゃ。わしはいつ死んでもかまわん、準備は出来ておる。
が、もしそのような治療を頼むことで、かみさんが満足できればそれはそれでいいんじゃ。
それがかみさんの望みなら、それはわしの望みでもある。
なぜなら、わしはかみさんを愛しておるからな」
私は千の雷に打たれたような衝撃を受けた。
私はそれまで患者の望みについて遺される家族がそれを尊重し、
意見を一致させることが重要だと思っていたが、この体験はそれを根底から覆した。
祖母の願いは祖父の願いと違っていたが、
それは必ずしも祖父の望みを尊重していないからというわけではないのだ。
終末期ケアにおいて残されれる家族の望みは無視されがちだ
(訳注:日本とはかなり事情が違います)。
それ以来私はこの件を心の片隅において患者と接するようになった。
遺される家族にも聞くようになった。患者の意志についてどう思うか、
何が彼らにとって重要なのか、そしてそのことが如何に意思決定に影響するか。
患者やその家族との話を終える前に、彼らが同じ地平に立っているか確認するようになった。
その一ヵ月後、祖父は介護施設で息を引き取っているところを発見された。
祖母の望みどおり心肺蘇生が行われたが蘇生はしなかった。
祖母は、祖父に最後のチャンスが与えられたことを知り、少し気が晴れた、
といった。
今日の祖母との会話で祖母は言った。
死ぬのは怖くないし、天国で祖父と会えるのを楽しみにしている、と。
そして「チューブや点滴だらけにされるのはいやだけど、
もし息子がそうして欲しいというのならそれでもいいわ」
コメント一覧
「改行に失敗したため、消して欲しい」
と書かれていましたので、
12725と12726両方消しました。
一応、私なりに改行を調整し、投稿し直しておきます。
すでに、読まれた方、12726で評価された方など
申し訳ありません。
安心しろ気の所為だ
が、自分の勘違いだったのね。
本当にそんなものがあったのかの確認もできないんだな