エスキモーたちは橇の前面に犬を扇形に立ててひかせるのである。もっとも長い綱をもらい、先頭に立つのは、
頭のいい優等生の犬で、これが群をひきずって行く。ところが、群の中には、いつも、綱がたるんでしまっているのが
一匹いるというのだ。綱がたるんでいるということは、橇を引くのにはまったく役立っていないということだから、こんな
犬は、連れて歩かなければいいのに、と思うのだが、それがおもしろい。
この犬は、橇上の人間が、たえず振り下ろすムチの目標として存在価値があるのである。犬たちは、一種のパニック
(恐怖)に陥りながら走るのだけれど、この能なし犬は、いつもムチを受けて哀れにもきゃんきゃん啼き喚き、その啼き
声が他の犬をふるい立たせる。
この犬のお尻のところは、あまりに多くのムチを受けるので、毛が抜けて禿になっているし、彼は走りながら、啼きながら、
いつ次のムチが自分の上に落ちて来るだろう、とたえずふり返って人間の方を見ている、というのを読んだ時、私は思わず
笑ってしまった。
この犬の生き方に美を見出すには、信仰を持つ外はないだろう。エスキモーの犬は、いつも餌を十分に与えられず、
飢えぎみだというから、この犬がこの世に生まれてよかった、というようなことは、何一つないように見える。しかしそれでも
なお、少なくとも、この犬は群にとって絶対に必要なのだしその姿は、私を笑わせてくれる。
~曽野綾子の著書より抜粋~
頭のいい優等生の犬で、これが群をひきずって行く。ところが、群の中には、いつも、綱がたるんでしまっているのが
一匹いるというのだ。綱がたるんでいるということは、橇を引くのにはまったく役立っていないということだから、こんな
犬は、連れて歩かなければいいのに、と思うのだが、それがおもしろい。
この犬は、橇上の人間が、たえず振り下ろすムチの目標として存在価値があるのである。犬たちは、一種のパニック
(恐怖)に陥りながら走るのだけれど、この能なし犬は、いつもムチを受けて哀れにもきゃんきゃん啼き喚き、その啼き
声が他の犬をふるい立たせる。
この犬のお尻のところは、あまりに多くのムチを受けるので、毛が抜けて禿になっているし、彼は走りながら、啼きながら、
いつ次のムチが自分の上に落ちて来るだろう、とたえずふり返って人間の方を見ている、というのを読んだ時、私は思わず
笑ってしまった。
この犬の生き方に美を見出すには、信仰を持つ外はないだろう。エスキモーの犬は、いつも餌を十分に与えられず、
飢えぎみだというから、この犬がこの世に生まれてよかった、というようなことは、何一つないように見える。しかしそれでも
なお、少なくとも、この犬は群にとって絶対に必要なのだしその姿は、私を笑わせてくれる。
~曽野綾子の著書より抜粋~
コメント一覧
クドリャフカだっけかな。flashあったんだけど見つからないや
キモ〜
じゃね?
少なくとも俺は。
どっちかってーと胸糞
ありがとう
そんなお前らを俺は見下す。これぞ共存。
そういうこと自体、あの人は鼻で笑い飛ばすタイプなんだけど。
すぎ=杉
全文読んだら印象変わるかもしれない。
日本のお嬢さんがアフリカ人と結婚して向こうで暮らすのに全力で反対したりとか、
その部分だけ抜粋したらレイシストだけど、全文読むと激しく納得したもんなあ。
『貧困の光景』って本だけど。
と、いうか、前半はほぼそのままのような気がする。
都会人は冷酷で人を見下すというのは本当のようだな
あんな寒いところに住むぐらいなら駅に住モー
>その姿は、私を笑わせてくれる。
この二言だけがどうしても判らん。
まあそういう世の中だったんじゃね?
家畜に対して同じ命あるものとして見ずに、
無機物と同じ玩具程度の認識というか。
ペットや家畜に対しても人間並みに感情移入するってのは、
生活に余裕が出来たここ数十年だけ習慣なのかもよ。
それは悲痛であると共に滑稽でもある。
飼われた動物の悲哀はそのまま人間の悲哀にも通じる。
それが哀しくもおかしい現実である。
そんな解釈では。
万物は幻影にすぎず、あるがままで完璧であり、
善や悪、受容や拒絶とは何の関係もないのだから、
おおいに笑い転げるがよい。
ギャワ・ロンチェンパ(1308-1363)チベット仏教哲学大家