豊穣の喪
死別の悲しみは年齢によって異なる。若い人は、正常な喪の過程をたどれば再生の力が強い。次は、結婚して一年十ヶ月で夫を亡くした女性からの聞き取りである。
彼女は、事故後に生まれてくる父親を知らない子供に読ませるため、事故や夫のことを日記に付けていた。その日記をたどりながらの聞き取りであった。
「ビルの体育館で、遺体と対面した。それまでは、やっと逢えると思うと、どこか気持ちがはやるところがあった。
話ができないなら、彼に手紙を書こうと思って前夜に、二人で泊まったホテルの便箋一杯に、楽しかったふたりの想い出、ありがとうの言葉、『私がTちゃんを愛する以上に、Tちゃんは私を愛してくれました。いつまでも私はTちゃんと一緒だよ』こんな言葉を書き、ふたりでお互いにお守りにしていた私の分身も入れて、封をして持っていった。
彼はお棺の三分の一もなかった。鼻の部分だけ見せてもらった。Tちゃんだと分かったけれど、黒くなっていて、あの日の朝、出かけていった時とまるで違う。本当にそうなのか、と不安と不信が混じりあった。
彼が好きだったタバコ、バレーボール、練習衣、前夜に書いたお別れの手紙、ティーバッグとお砂糖、そして花束を入れた。
斎場に向かう車中はずっと棺を抱いていた。降りるとき、棺に最後のキスをしたが、木の堅い感じしか返ってこない。火葬の時も、あの中に入ってしまったら本当にお別れ、『行かないで』と叫びたい気持ちだった。
遺骨は少ししかなかった。虚しく熱い骨を抱いて、『こんなに小さくなっちゃった。でも大丈夫。ちゃんと抱いてあげるからね。どこにも行かないからね』と語りかけていた。」
日記には、帰宅後を次のようにつづけている。
「Tちゃん、やっと返ってきたヨ。やっとふたりの家に帰ってきたよ。永い間、ひとりにさせて御免ネ。いつもの部屋だヨ。
でも、何も言ってくれません。ただ、写真のTちゃんが笑っているだけ。
あの日以来、やっとTちゃんの横に寝ました。でも、手をつないで寝ることはできませんでした」。
社葬の日の日記には、
「嫁入りに持ってきた喪服を着た。初めて喪服を着るのが夫のためだなんて、何のためにこんなもの持ってきたのか。
正面にデンと戒名があって、横に俗名TOと書いた札が立ててある。それが、ひどく腹立たしかった。私の中では、ちゃんと生きているのに、なんで戒名で呼ばれなければいけないのか。
弔辞、みんな彼のことを思い出させることばかり言っていた。『よかったね。Tちゃんの今までのこと、皆分かってくれたんだよ。人のために何かしてきたんだね』と話しかけた。
でも、人に惜しまれても、もう戻ってこない。遺体が確認されるまでも、何度も死にたいと思った。私の人生もここで終わった。一緒に楽しんでくれる人がいないなら、生きていても仕方がない。とにかく彼の所に行きたい。
でも、そんなことできないんだね。ひとりになったって、生きていかなくちゃ。子供とふたりで頑張らなくちゃ。Tちゃん、いつも見ていてよ。そして、『ガンバレー』って声をかけてよ。(中略)
短すぎる。知り合って三年、結婚して一年十ヶ月なんて、あまりに短すぎる。これからの方が、ずっと長いのに、どうして、ひとりで先に行っちゃうの。どうして、私だけひとりにするの。ずるいよ。死ぬ時は一緒に死にたいと言ってたのに。
この子、いらないから、引き替えてもいいから、かわりに帰ってきてほしい、と思った。
私ね、子供生んで、育てて、子供が三十歳、つまりTちゃんと私と同じ歳になった時、その時にTちゃんのところに行きたい。だから後三十年、今まで私が生きてきたと同じ年月だけ頑張るネ。それまで待っててネ。でも、いつも一緒だヨ。」
野田正彰氏は次のように述べている。
「死はいつも、遺された者にとって裏切りに思える。悲しみの中には、死者への非難も含まれている。
これは彼女が、愛するただひとりの人に語りかけたものである。誰もそれを聞くことは許されていない。ただ、彼女は自分の体験の過程を、これから体験する人のために、夫の死に意味を取り戻すために、話してくれた。私はそれを少し整理して、伝えているだけだ。(中略)
悲哀にも、美しい悲哀と、病的な悲哀がある。人はいつでも自分の喪の体験を病的な悲哀に変えてしまう危険な橋を渡りながら、なおそれを美しい悲哀に完成させる作業をしている。私は彼女の喪の作業を美しいと思う」。
合同慰霊祭の夜、夢を見た。
「彼に会えたので抱きついた。しっかりと抱きしめてもらった。頬をさわったり、手をつないだり、くっついてばかりいた。彼は温かかった。
そうしたら、彼が『分かってるやろ』って言う。はっきりとした声で。時間になれば帰ってしまう、そういう立場にいるということ、つまり気持ちの区切りを持っておかなくってはいけないと言っているみたい。
でも会えたんだからいいんだ、と私は思う。白いバラが雨のように降ってきて夢から醒めそうになった時、涙が出て止まらなかった」。
このような夢をたくさん重ねながら、喪の作業は夢の中でも進められていく。夢の中で彼女はいつも静かに泣いている。夢の中の涙は、夢を見る人の涙であり、また死者の涙である。
共に泣くことによって、夢は覚醒時以上に喪の作業をしている。夢で泣くことの癒しの力は大きい。こうして徐々に夫と別れていくのである。
事故から五ヶ月後に、彼女は出産した。
「男の子が産まれたのは嬉しかった。彼の生まれ替わりだと思った。
看護婦さんに、出身地や、主人のこと、色々聞かれる。ワーッと泣き出してしまう若い看護婦さんが、枕元の彼の写真を見て、『ワー、こんな所まで写真を持ってきて、アツアツね』とひやかした。後で事情を知って、謝りにきた。医師と婦長と担当の看護婦さんしか、事情を知らない。
夕方の、父親たちが面会にくる時間が一番辛かった。退院してからも、一ヶ月検診とか、母親学級とかある。その度に、自分だけ喜んでくれる人がいない、特別だと感じる。でも、『何も悪いことをしたわけではない。私ひとりだけど、頑張るもん』と、自分に言いきかせてきた。
育児に追われ、時がたち、子供が意思表示をし始めたときに気が付いた。この子は私の持ち物ではない。『お父さんのいない、かわいそうな子』と私が思っても、子供には関係ない。『僕は僕で生きていくよ』と主張しているようだ。いつか子供に父親のことを聞かれた時に、どう答えていいのか、困っている」。
彼女は日記や夢の中で、あるいは絶えず心の中で、夫と対話し交流している。温かい追想は死者の好むものであり、また遺族にとっても大きな癒しである。野田正彰氏は、彼女のことを書いた章を「豊穣の喪」と題している。
死別の悲しみは年齢によって異なる。若い人は、正常な喪の過程をたどれば再生の力が強い。次は、結婚して一年十ヶ月で夫を亡くした女性からの聞き取りである。
彼女は、事故後に生まれてくる父親を知らない子供に読ませるため、事故や夫のことを日記に付けていた。その日記をたどりながらの聞き取りであった。
「ビルの体育館で、遺体と対面した。それまでは、やっと逢えると思うと、どこか気持ちがはやるところがあった。
話ができないなら、彼に手紙を書こうと思って前夜に、二人で泊まったホテルの便箋一杯に、楽しかったふたりの想い出、ありがとうの言葉、『私がTちゃんを愛する以上に、Tちゃんは私を愛してくれました。いつまでも私はTちゃんと一緒だよ』こんな言葉を書き、ふたりでお互いにお守りにしていた私の分身も入れて、封をして持っていった。
彼はお棺の三分の一もなかった。鼻の部分だけ見せてもらった。Tちゃんだと分かったけれど、黒くなっていて、あの日の朝、出かけていった時とまるで違う。本当にそうなのか、と不安と不信が混じりあった。
彼が好きだったタバコ、バレーボール、練習衣、前夜に書いたお別れの手紙、ティーバッグとお砂糖、そして花束を入れた。
斎場に向かう車中はずっと棺を抱いていた。降りるとき、棺に最後のキスをしたが、木の堅い感じしか返ってこない。火葬の時も、あの中に入ってしまったら本当にお別れ、『行かないで』と叫びたい気持ちだった。
遺骨は少ししかなかった。虚しく熱い骨を抱いて、『こんなに小さくなっちゃった。でも大丈夫。ちゃんと抱いてあげるからね。どこにも行かないからね』と語りかけていた。」
日記には、帰宅後を次のようにつづけている。
「Tちゃん、やっと返ってきたヨ。やっとふたりの家に帰ってきたよ。永い間、ひとりにさせて御免ネ。いつもの部屋だヨ。
でも、何も言ってくれません。ただ、写真のTちゃんが笑っているだけ。
あの日以来、やっとTちゃんの横に寝ました。でも、手をつないで寝ることはできませんでした」。
社葬の日の日記には、
「嫁入りに持ってきた喪服を着た。初めて喪服を着るのが夫のためだなんて、何のためにこんなもの持ってきたのか。
正面にデンと戒名があって、横に俗名TOと書いた札が立ててある。それが、ひどく腹立たしかった。私の中では、ちゃんと生きているのに、なんで戒名で呼ばれなければいけないのか。
弔辞、みんな彼のことを思い出させることばかり言っていた。『よかったね。Tちゃんの今までのこと、皆分かってくれたんだよ。人のために何かしてきたんだね』と話しかけた。
でも、人に惜しまれても、もう戻ってこない。遺体が確認されるまでも、何度も死にたいと思った。私の人生もここで終わった。一緒に楽しんでくれる人がいないなら、生きていても仕方がない。とにかく彼の所に行きたい。
でも、そんなことできないんだね。ひとりになったって、生きていかなくちゃ。子供とふたりで頑張らなくちゃ。Tちゃん、いつも見ていてよ。そして、『ガンバレー』って声をかけてよ。(中略)
短すぎる。知り合って三年、結婚して一年十ヶ月なんて、あまりに短すぎる。これからの方が、ずっと長いのに、どうして、ひとりで先に行っちゃうの。どうして、私だけひとりにするの。ずるいよ。死ぬ時は一緒に死にたいと言ってたのに。
この子、いらないから、引き替えてもいいから、かわりに帰ってきてほしい、と思った。
私ね、子供生んで、育てて、子供が三十歳、つまりTちゃんと私と同じ歳になった時、その時にTちゃんのところに行きたい。だから後三十年、今まで私が生きてきたと同じ年月だけ頑張るネ。それまで待っててネ。でも、いつも一緒だヨ。」
野田正彰氏は次のように述べている。
「死はいつも、遺された者にとって裏切りに思える。悲しみの中には、死者への非難も含まれている。
これは彼女が、愛するただひとりの人に語りかけたものである。誰もそれを聞くことは許されていない。ただ、彼女は自分の体験の過程を、これから体験する人のために、夫の死に意味を取り戻すために、話してくれた。私はそれを少し整理して、伝えているだけだ。(中略)
悲哀にも、美しい悲哀と、病的な悲哀がある。人はいつでも自分の喪の体験を病的な悲哀に変えてしまう危険な橋を渡りながら、なおそれを美しい悲哀に完成させる作業をしている。私は彼女の喪の作業を美しいと思う」。
合同慰霊祭の夜、夢を見た。
「彼に会えたので抱きついた。しっかりと抱きしめてもらった。頬をさわったり、手をつないだり、くっついてばかりいた。彼は温かかった。
そうしたら、彼が『分かってるやろ』って言う。はっきりとした声で。時間になれば帰ってしまう、そういう立場にいるということ、つまり気持ちの区切りを持っておかなくってはいけないと言っているみたい。
でも会えたんだからいいんだ、と私は思う。白いバラが雨のように降ってきて夢から醒めそうになった時、涙が出て止まらなかった」。
このような夢をたくさん重ねながら、喪の作業は夢の中でも進められていく。夢の中で彼女はいつも静かに泣いている。夢の中の涙は、夢を見る人の涙であり、また死者の涙である。
共に泣くことによって、夢は覚醒時以上に喪の作業をしている。夢で泣くことの癒しの力は大きい。こうして徐々に夫と別れていくのである。
事故から五ヶ月後に、彼女は出産した。
「男の子が産まれたのは嬉しかった。彼の生まれ替わりだと思った。
看護婦さんに、出身地や、主人のこと、色々聞かれる。ワーッと泣き出してしまう若い看護婦さんが、枕元の彼の写真を見て、『ワー、こんな所まで写真を持ってきて、アツアツね』とひやかした。後で事情を知って、謝りにきた。医師と婦長と担当の看護婦さんしか、事情を知らない。
夕方の、父親たちが面会にくる時間が一番辛かった。退院してからも、一ヶ月検診とか、母親学級とかある。その度に、自分だけ喜んでくれる人がいない、特別だと感じる。でも、『何も悪いことをしたわけではない。私ひとりだけど、頑張るもん』と、自分に言いきかせてきた。
育児に追われ、時がたち、子供が意思表示をし始めたときに気が付いた。この子は私の持ち物ではない。『お父さんのいない、かわいそうな子』と私が思っても、子供には関係ない。『僕は僕で生きていくよ』と主張しているようだ。いつか子供に父親のことを聞かれた時に、どう答えていいのか、困っている」。
彼女は日記や夢の中で、あるいは絶えず心の中で、夫と対話し交流している。温かい追想は死者の好むものであり、また遺族にとっても大きな癒しである。野田正彰氏は、彼女のことを書いた章を「豊穣の喪」と題している。
コメント一覧
話が凄すぎてよく分からなくなる
わかっていたけど見てしまった。
案の定※3みたいなのがいた…
遺書を書いてくらさい
わかってるんだろうけど、時代ですよ時代
今だってちがうかたちであるでしょ
自分の子供を殺すとかふざけんな。お前が死ねワキガ女が。
JALってかわいそうだな〜こんな変な奴らにたかられて。
わかったから、風呂入ってサッパリしてから、もう一度最後まで読め。
あと、夏は混む電車に乗るな。
米13と同意見だ。あと腕上げるな
あと米2、3代わりにお前らが死ねば良かったのにな