161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:17:56.46 ID:dKp7WdtW
慶長4年(1599)3月、伏見島津邸において、島津忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害した。国許でこの報を受けた 忠棟の子・忠真は自領の都城および勢力下の12城をもって蜂起。いわゆる庄内の乱が起こった。
忠恒は、忠真領の最前線にある山田城の攻略を島津中務大輔豊久らに命じ、6月23日、城攻めが開始された。
豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻(午前12時)まで激しく攻め立てたが城方を崩せず、逆に戦意が
衰えたところに痛烈な反撃を食らい、あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった。
「はっはっはっ、見よ!名将家久公の子、他国にも聞こえし島津中書とて、何ほどの事やあらん!」
城方は、奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした。
これを見た城攻め諸将は、驚愕した。
「あれは…まさか?」「ば、バカな!」「豊久様の旗が城内に?!」「なんと…何という事じゃあ………」
「早や、豊久様が一番乗りを果たされたわ!」「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども、後れをとるなーっ!」「ヒャッハー!豊久様に続けえええええ!」
激しく勘違いした諸将は奮起、先を争って城へ攻め入ると、一気に本丸まで駆け上がった。
豊久(………まぁ良か。)
その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は、主将の長崎休兵衛・副将の中村兵左衛門まで
討ち取る大功を立て、豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた。(本藩人物誌)
コメント一覧
そうだよな、去年くらいから島津豊久って聞いたらそれが出てくるよな
こうして教わる歴史が面白く感じるのは不思議だ
なんでそんなことをするかというと
後方の高台で見下ろしている双方の大将が、
自分の勢力がどこまで達しているかを
知るため。