■大空の白雲を墓標として(海軍少佐 吹野匡氏)
-神風特別攻撃隊旭日隊
-昭和20年1月6日 比島方面にて戦死
-鳥取県淀江町出身 京都帝国大学卒 26歳
遺言状
母上様
匡は長い間本当にご厄介ばかりおかけして参りました。
色々の不幸の上に今又母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不幸をお許し下さい。
昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思います。
常識的に考えて、危険性の少ない道は他に幾等もありました。
国への御奉公においては、それでも充分果たされたのかも知れません。
併し、この日本の国は、数多くの母達の尽きざる悲しみと嘆きを積み重ねてこそ立派に輝かしい栄えを得て来たし、又今後もこれあればこそ栄えて行く国なのです。
私の母上はこの悲しみに立派に堪えて、日本の国を立派に栄えさせてゆく強い母の一人であると信じたればこそ、私は何の憂いもなしにこの栄光ある未知を進み取る事が出来ました。
私が、いささかなりとも国に報ゆるところのある益荒雄の道を進み得たのも、一に母上のお陰であると思ひます。
母上が、私をしてこの栄光ある海軍航空の道に於て、輝かしい死を、そして、いささかの御奉公を尽くさせて下さったのだと誇りをもって言う事が出きます。
美しい大空の白雲を墓標として、私は満足して、今、大君と愛する日本の山河とのために死んで行きます。
昭和19年の中盤から始められた「神風特攻隊」は、言うまでもなく“必死”の戦法だ。
大東亜戦争に出征した多くの兵士が、当然のように死を覚悟していたとはいえ、それは生への望みを完全に絶たれていたわけではない。
だから、特攻に志願し、さらに実際に出撃するにあたっては、兵士達は通常の戦闘とは異なる決断の壁を、何重にも踏み越えなければならなかったという。
ただ、そうした特攻戦士の唯一の幸福は、不慮の戦闘で亡くなるのとは違い、愛する家族に対して事前に遺書をしたためる僅かなゆとりが許されていたことだ。したがって、ここに掲載されている「遺書」も特攻隊員のものが一番多い。
多くの遺書の中で際立つのは、自分の両親に対して不孝を詫びる内容、合わせて自分を生み育んでくれたことを感謝する内容だ。
それも、繰り返し繰り返し、それぞれの思いを込めた実に多様な表現で、しつこい位に綴られている。
親への気持ちは、現代人の感覚とは、まったく異なっていることが分かる。
それは、教育勅語に徳目として記され、学校教育において重視されていたということ以上に、古来日本社会が育んできた文化として、この時代までの日本人の精神には、深く刷り込まれていた価値観だったのだろう。
ここに綴られているように、母への思いは、天皇陛下と国への思いへと真直ぐにつながっている。そして、悶絶するような苦悩の果てに一切の私情を断ち切ったとき、その母と国のために死ねることが、明鏡のように澄んだ心に至上の喜びとして映しだされる。
-神風特別攻撃隊旭日隊
-昭和20年1月6日 比島方面にて戦死
-鳥取県淀江町出身 京都帝国大学卒 26歳
遺言状
母上様
匡は長い間本当にご厄介ばかりおかけして参りました。
色々の不幸の上に今又母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不幸をお許し下さい。
昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思います。
常識的に考えて、危険性の少ない道は他に幾等もありました。
国への御奉公においては、それでも充分果たされたのかも知れません。
併し、この日本の国は、数多くの母達の尽きざる悲しみと嘆きを積み重ねてこそ立派に輝かしい栄えを得て来たし、又今後もこれあればこそ栄えて行く国なのです。
私の母上はこの悲しみに立派に堪えて、日本の国を立派に栄えさせてゆく強い母の一人であると信じたればこそ、私は何の憂いもなしにこの栄光ある未知を進み取る事が出来ました。
私が、いささかなりとも国に報ゆるところのある益荒雄の道を進み得たのも、一に母上のお陰であると思ひます。
母上が、私をしてこの栄光ある海軍航空の道に於て、輝かしい死を、そして、いささかの御奉公を尽くさせて下さったのだと誇りをもって言う事が出きます。
美しい大空の白雲を墓標として、私は満足して、今、大君と愛する日本の山河とのために死んで行きます。
昭和19年の中盤から始められた「神風特攻隊」は、言うまでもなく“必死”の戦法だ。
大東亜戦争に出征した多くの兵士が、当然のように死を覚悟していたとはいえ、それは生への望みを完全に絶たれていたわけではない。
だから、特攻に志願し、さらに実際に出撃するにあたっては、兵士達は通常の戦闘とは異なる決断の壁を、何重にも踏み越えなければならなかったという。
ただ、そうした特攻戦士の唯一の幸福は、不慮の戦闘で亡くなるのとは違い、愛する家族に対して事前に遺書をしたためる僅かなゆとりが許されていたことだ。したがって、ここに掲載されている「遺書」も特攻隊員のものが一番多い。
多くの遺書の中で際立つのは、自分の両親に対して不孝を詫びる内容、合わせて自分を生み育んでくれたことを感謝する内容だ。
それも、繰り返し繰り返し、それぞれの思いを込めた実に多様な表現で、しつこい位に綴られている。
親への気持ちは、現代人の感覚とは、まったく異なっていることが分かる。
それは、教育勅語に徳目として記され、学校教育において重視されていたということ以上に、古来日本社会が育んできた文化として、この時代までの日本人の精神には、深く刷り込まれていた価値観だったのだろう。
ここに綴られているように、母への思いは、天皇陛下と国への思いへと真直ぐにつながっている。そして、悶絶するような苦悩の果てに一切の私情を断ち切ったとき、その母と国のために死ねることが、明鏡のように澄んだ心に至上の喜びとして映しだされる。
コメント一覧
アメリカの戦車に轢き殺されてアメリカの火炎放射器で焼き殺されてアメリカの機関銃に穴だらけにされてアメリカの艦砲射撃に跡形も無く吹き飛ばされてアメリカの機銃掃射で背中の赤子と共に撃ち殺されてアメリカの焼夷弾に家を焼かれアメリカの魚雷で疎開船を沈められアメリカの対空砲で七面鳥さながらに撃ち落とされアメリカの戦車に蹂躙され女子供は犯され男はゴミと一緒に穴に埋められ最後に原爆で何十万も死んで今の日本があるんだよね
アメリカに感謝しないといけないよね
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特攻隊員とかの旧日本軍の遺書って文章力高いよね
戦前の国語教育が良かったのかな
もしこれが「現代人は親を顧みぬ」と言いたいのであれば、それは流石に極論だと思うわ。
>>4
彼等はエリート中のエリートだったから教養も格段に高かったんだよ。
熱涙伝う顔あげて、勲を仰ぐ国の民
永久に忘れじ、その名こそ
神風特別攻撃隊
今されたらジャニーズの何たらとAKBの何ちゃら主演で、
主題歌はAKBで、オリジナルストーリーがふんだんに盛り込まれて、
グズグズのグダグダになりそうだから、正直止めてほしい。
白雲を墓標にし、日本帝国の未来を信じて散っていった人達を、生き残りすべての日本人は裏切ったのだ。
これで浮かばれる英霊のあるはずがあろうか。
日本や家族の事を思って戦った人が大勢いた事は忘れてはいけないと思う
それを踏まえて、
こういう遺書を若者が書かざるを得なかったのは悲劇的だし
死を前にして残された家族が非国民扱いされないよう気遣う精神は立派だ
でも、こういうコピペは検閲や監視のことを書かないから
心から戦時中の若者は心から「お国のために喜んで」死んでいったと思う馬鹿が湧く
現代のゆとりだって、同じ境遇に置かれれば
「お国のために喜んで死にます」と書いて死ぬしかないんだけどな
まあ、ここまでちゃんとした文章は書けないだろうけどw
おまけにパイロット達は自分で整備するから技術者としてもかなりレベルが高い
そんな人から死んでいったんだからなあ
そう決めつけては身も蓋もない。
人吉基地で終戦を迎えた義父はそんなことは一言も言ってなかった。
死にたくないなんて言える時代じゃ無かったんだよな。
あんな絶望しかない中で、生き残る事が背徳とされて。
70余年前に本当にあった事なんて思えないよな…。