177 名前:22世紀を目指す名無しさん 投稿日:2001/06/12(火) 01:22 ID:???
中1の時、仲の良い友達4人で富士山に登った。中学生同志で富士山に登るなんて、
今考えたら変な話だが、休み時間に『やっぱ日本一には登らんと』というよくわからん理由で
夏休みに登りにいった。俺を含め3人は普段運動が得意で頭が弱い典型的なスポーツ馬鹿だったが、
あとの一人はどちらかというと運動オンチで体も弱く、俺達はそいつには行くのを辞めるように勧めた。
そいつも『足手まといになるのは嫌だな』と言いながら、ちょっと悲しい顔をした。
その日の夜、そいつの(分かりにくいからイニシャルでS)の母親から電話があって、
『一緒に登らせてやれないかな?』と言われ、俺はちょっと躊躇したが
他の2人を説得するのを約束して電話を切った。
次の日の朝、Sは『昨日おかんが変な電話したらしいけど、ゴメンな』と申し訳なさそうな顔で
俺に話し掛けてきた。
『ええやん 一緒に登ろうや!』と言うと、『ほんまに?』と満面の笑みで喜んだ。
待望の夏休みになり、4人で富士山の五号目まで行くバスに乗って、富士山を目指した。
4人ともやけに興奮していてしゃべり続けていた。特に普段4人のツッコミ役で
ボソボソとしかしゃべらないSが一番大きな声でしゃべっていた。
5号目~6号目~7号目までは登山とはいえ、まだ緩やかな坂道でS君も息を切らせながらもなんとか登っていたが、
7号目~8号目になると斜面もきつくなり、みんなでSのペースに合わせながら一緒に登った。
8号目につくと今日の寝床がある。8号目の宿だ。そこで夕飯をとる、といってもレトルトのカレーだったが、
うまいうまいといいながら、みんなでほうばった。
飯を食った後、砂まじりの布団に潜り込み、『明日は晴れてご来光が見れるとええな!』などとはしゃいでいた。
俺はちょっと青白い顔をしていたSが心配になり、『大丈夫か?』と聞くと、
『大丈夫や!』と青白い顔をしてSは答えた。
S君に起こされ、夜中に宿を出る。夜が明けるまでに頂上にたどりつくためには、夜中に出ないと間に合わない。
9号目に差し掛かったところでSがうずくまって歩けなくなった。
どうやら酸欠状態になったらしく、俺は8号目の宿まで酸素の缶スプレー(名前は知らない)を走って買いに戻った。
S君は苦しそうにしていたが、大分マシになり、再び頂上を目指し始めた。
そしてようやく頂上についた。
頂上ではご来光を拝むための人だかりができていて、俺達もそのなかに混ざった。
数分後、空が白みはじめると、雲の中から太陽が姿をあらわした。
『スゴイな』と俺が言うとSは嬉しそうに『うん』と言った。
その時の喜びは今まで生きてきた中でも最高だ。
178 名前:22世紀を目指す名無しさん 投稿日:2001/06/12(火) 01:25 ID:???
高校になると、4人ともバラバラになり、Sは親の都合で東京に引っ越した。
でも高校に入ってからも、他の3人とはちょくちょく会い、Sとはたまに電話で近況報告をしたりしていた。
Sはいつも自分の近況報告はせず、富士山の時の思い出話をすることが多かった。
その後、俺は浪人生で受験の真っ只中、Sに連絡することも忘れていた時にSの母親から連絡があった。
『今日息をひきとってな。。。あの子、いつも富士山の時の話ばっかりしてたわ
ありがとうな ありがとうな・・・・』
と泣きながら俺に礼を言っていた。
俺が『死んだってどういうことですか!? 』というとSの母親は本当のことを話してくれた。
Sはすでに高1の終わりに、病気で高校に行かなくなり、ずっと家で静養していて、
ここ数ヶ月はずっと状態が悪く、今日息を引き取ったということだった。
電話を切った後、不思議と涙は出なかった。というより、急過ぎてなにが起こったのかわからなかった。
数日立ってから、富士登山の時の写真をみたときに涙があふれてきて、涙が止まらくなった。
Sが『うん』といったあの時の嬉しそうな顔は今でもあの時のまま、俺の記憶に焼き付いている。
長々とゴメン
上でいい話を聞いたので、Sのことを書きたくなって、書いてみたら長くなりすぎた。
文中にも書いてあるけど、スポーツ馬鹿なので許してくれ
コメント一覧
意外と大丈夫だよ?
それでもかなりの体力バカでないと。
富士山に登るとか無茶さえしなければ死なずにすんだんだよね?
Sの母親の態度からして元々持病で長くなかった可能性もある。いつ発症したか書いてないし。
皆にも、こんな思い出あるか?
元々悪かったんだろ
富士登山は危ないけど、一回登ってその時体調崩したとしてもそんな何年も続く症状にはならない。
登山未経験の俺が言うんだから聞き流せ
やめてよね!(:_;)