ネットが普及してない時代って「物知りな人」が結構チヤホヤされてた気がするんだけど、
Wikipediaが出来てからは、そういう人ってただ面倒なだけになってしまった。
元々「物知りな人」って、質問した内容について答えてくれたら嬉しいんだけど、
自分の語りたい内容にどんどん脱線していってうんざりなところがあった。
その点、Wikipediaは必要な部分だけ読めばいいから完璧。
「物知りな人」のポジションはWikipediaに奪われてしまった。
そんな便利なWikipediaだけど、知った当初は
「こんな有益な情報を無料で共有してくれるなんて、なんてありがたいんだろう」と感謝してた。
たくさんの人が公共のために無料で知識を持ち寄っていることに感動した。
でも今はそんな感謝の心なんて忘れてしまった。Wikipediaはあるのが当たり前。
調べたことが載ってないと「使えねーな」とすら思う。そんな人、私だけじゃないんじゃないですか。
結局、ツールは大切にされない。
ツール的な人間、お役立ち人間である限り、大事な人間にはなれない。
ならどういう人間だったら大事にされるのか。共感を与える人間だと思う。
ネット上でも共感的な話はよくされている。
ぼっちなのがつらいという話。
彼女が出来ないのがつらいという話。
失恋したのがつらいという話。
ブサイクなのがつらいという話。
就活がうまくいかないのがつらいという話。
職場がブラックなのがつらいという話。
こういうやり取りって、どうせ結論は出ないしあまり意味が無い。
「このようにすればその状況を脱出できる!」などと方法論を説く人があらわれても、
誰も聞いちゃいないし実行しない。ただ「つらいなぁ」というつぶやきに対して、
似た状況に置かれている人が「だよねぇ」と答える、こんなやり取りが続くだけ。
おんなじやり取りが何度も何度もネット上で繰り返されてる。何の進歩もなく、ずっと。
でも、このやり取りこそが「人間が人間に求めるもの」なんじゃないかと思う。
人には向き不向きがあって、傷ついた人を慰めるのが得意な人間と不得意な人間がいる。
ネットが出来るまでは、共感が不得意でも「物知りな人」として、Wikipediaポジションで活躍できた。
でもネットが出来たことで、本当にそういう人のポジションは無くなって、友達になる意味が無い人になってしまったと思う。
人から必要とされるには、物知り度合いをさらに磨いて本を書いて生きていくとか、その道のプロになっていくしかない。
そして、そうなったとしても人から求められているのは「あなたの書いた本」であって、「あなた」ではない。
それで構わないよ、という人ももちろん居ると思う。
「わたし」が求められるより、「わたしの作ったもの」が求められる方が嬉しいという人も居ると思う。
でもそこまで到達できず、「わたし」を必要とされたい、友達や恋人が欲しい、と思っていながら、
傷ついた人を慰めるのが不得意で、身近にいる誰からも必要とされていない人も居ると思う。
こういう人々からネットが奪ったものは大きい。
Wikipediaが出来てからは、そういう人ってただ面倒なだけになってしまった。
元々「物知りな人」って、質問した内容について答えてくれたら嬉しいんだけど、
自分の語りたい内容にどんどん脱線していってうんざりなところがあった。
その点、Wikipediaは必要な部分だけ読めばいいから完璧。
「物知りな人」のポジションはWikipediaに奪われてしまった。
そんな便利なWikipediaだけど、知った当初は
「こんな有益な情報を無料で共有してくれるなんて、なんてありがたいんだろう」と感謝してた。
たくさんの人が公共のために無料で知識を持ち寄っていることに感動した。
でも今はそんな感謝の心なんて忘れてしまった。Wikipediaはあるのが当たり前。
調べたことが載ってないと「使えねーな」とすら思う。そんな人、私だけじゃないんじゃないですか。
結局、ツールは大切にされない。
ツール的な人間、お役立ち人間である限り、大事な人間にはなれない。
ならどういう人間だったら大事にされるのか。共感を与える人間だと思う。
ネット上でも共感的な話はよくされている。
ぼっちなのがつらいという話。
彼女が出来ないのがつらいという話。
失恋したのがつらいという話。
ブサイクなのがつらいという話。
就活がうまくいかないのがつらいという話。
職場がブラックなのがつらいという話。
こういうやり取りって、どうせ結論は出ないしあまり意味が無い。
「このようにすればその状況を脱出できる!」などと方法論を説く人があらわれても、
誰も聞いちゃいないし実行しない。ただ「つらいなぁ」というつぶやきに対して、
似た状況に置かれている人が「だよねぇ」と答える、こんなやり取りが続くだけ。
おんなじやり取りが何度も何度もネット上で繰り返されてる。何の進歩もなく、ずっと。
でも、このやり取りこそが「人間が人間に求めるもの」なんじゃないかと思う。
人には向き不向きがあって、傷ついた人を慰めるのが得意な人間と不得意な人間がいる。
ネットが出来るまでは、共感が不得意でも「物知りな人」として、Wikipediaポジションで活躍できた。
でもネットが出来たことで、本当にそういう人のポジションは無くなって、友達になる意味が無い人になってしまったと思う。
人から必要とされるには、物知り度合いをさらに磨いて本を書いて生きていくとか、その道のプロになっていくしかない。
そして、そうなったとしても人から求められているのは「あなたの書いた本」であって、「あなた」ではない。
それで構わないよ、という人ももちろん居ると思う。
「わたし」が求められるより、「わたしの作ったもの」が求められる方が嬉しいという人も居ると思う。
でもそこまで到達できず、「わたし」を必要とされたい、友達や恋人が欲しい、と思っていながら、
傷ついた人を慰めるのが不得意で、身近にいる誰からも必要とされていない人も居ると思う。
こういう人々からネットが奪ったものは大きい。
コメント一覧
人の話を否定するのが癖だったり
弱っている人を「甘え。努力しろ」と論破するのが好きだったり
それで人から好かれようと思うのがそもそもの間違い
でも使い方が解らないと意味が無い
そういう意味の「物知りな人」は今でも重宝される
という感心の仕方もあってな
知識は知ったうえで実践したり身に付けたりしたうえで、生かせないと…
でも自分で努力して調べるって労力をせず、今じゃネットでポチるだけで知ったつもりになってるのは違う気もするけどね。
と言いたい人もいるんじゃないかね。
>傷ついた人を慰めるのが不得意で、身近にいる誰からも必要とされていない人も居ると思う
>こういう人々からネットが奪ったものは大きい。
こういう人こそネットで人との繋がりを築けるようになった面もあるだろう
慰めるのは上手くなくても、愚痴を聞いてくれる人はネットにはいるからね
そして愚痴をこぼすこと自体が、ああ、私と同じように考えてる人もいるんだ、と誰かの慰めにもなる
知識自慢の人もWikipediaとか、個人のブログとかで活躍の場を与えられたわけだし、
結局、一長一短だよ
だけで済むのを長々と…
後半ウェットな感傷を垂れ流してるけど妄想です
もう少し前面に押し出していけたら良いと思う
愚痴の渦巻く掲示板に、適切な解決策を落としてってくれる人がいれば
それだけで事態がある程度好転する可能性はあるっしょ?