121 :名無し中団長:2006/02/10(金) 02:40:03 ID:???
さて、ミュンヘン事件のあった72年9月、 アミンの独裁政権に最初の軍事的危機が訪れる
ミルトン・オボテ前大統領と彼を支持する軍人からなる侵攻作戦
名づけて「夜と霧」作戦である
ウガンダの玄関口、エンテベ国際空港を奇襲し
カンパラのアミンの本拠を落とす大計画である
うまくいけば…の話だが。
で、実にアフリカ的な事情でアミンは救われることになる
アミンのクーデタで国を追われタンザニアに逃亡したオボテ前大統領は、
早くから、祖国解放のため、隣国タンザニア、スーダンから侵攻する計画を練っていた
反オボテ・親英でこの当時はアミンに好意的だったケニアはあてにならなかった、
ケニアの副大統領・アラプ・モイ(後の大統領)は、ケニアッタ大統領の意を受け、
クーデタの難を避けケニアに亡命しようとした人々を
片っ端からアミンの治安部隊に引き渡すことに熱心だった。
引き渡された人々がどうなったかは、言わずもがな。
オボテの計画は、3つのコースからウガンダに侵攻することになっていた。
まず、主力軍500人が、スーダン南部、アミンに迫害されているアチョリ、ランギ両部族の
居住地に隣接する地方から侵攻、支持者を増やしながら首都カンパラを突く。
助攻勢は、ウガンダと南で国境を接するタンザニアのビクトリア湖西岸地区から浸入、
約200人が、アミン支持の部隊を追討しながらカンパラを目指す。
それに先立ち、100人の挺進隊が民間機に偽装した輸送機でエンテベ空港を奇襲、
空軍基地や国会議事堂、国営放送を抑え、南北の侵攻軍を迎え入れる。
Dデーは72年9月17日
うまくいけば速攻でアミンを倒せるはずだった。うまくいけば…
122 :名無し中団長:2006/02/10(金) 02:41:15 ID:???
スーダン南部のオウィニにある主力の出撃基地は、 設立以来、アミンの息のかかったアニャニャ(スーダン人民解放軍=SPLAのカクワ族=アミンの同胞)
に監視されうる位置にあった
さらに、侵攻軍の主要メンバーであるアチョリ族、ランギ族の兵士は、
しょっちゅう国境を越えて故郷に「里帰り」しては
いずれ自分達が祖国に凱旋する旨を吹聴しまくった。
イスラエル軍事顧問の操縦するウガンダ空軍偵察機も、スーダン南部の
新しい軍事勢力について報告を上げていた。
71年4月には、国境を越えてこの基地に合流しようとした反アミン派兵士700人が
アミンの国境警備隊やアニャニャ達に逮捕され、処刑された
これで情報を秘匿しろ、というのがどうかしていた
果して72年2月、スーダン内戦の講和会議で、
SPLA側は、この出撃基地の撤去を条件に持ち出した。
オボテの同盟者のはずのヌメイリ・スーダン大統領は、
祖国の安定を優先し、キャンプを撤去した。
これで、はさみうちのうち、北の片刃は役に立たなくなった
哀れ主力部隊の面々は、3ヶ月かけて徒歩でポートスーダンへ移動、
貨物船でタンザニアのタンガ港に上陸、連絡を受けていなかったタンザニアの入管とトラブルを起こしながら
南翼のタンザニア・ウガンダ国境へ移動した
ここまでの行動で、英国、イスラエル、ケニアの情報当局どころか
アミンの警戒網に引っかからないはずが無かった
123 :名無し中団長:2006/02/10(金) 02:42:17 ID:???
さらに悪いことは重なるもので Dデー約1カ月前の72年8月、南部ウガンダ・タンザニア国境で紛争が勃発、両国の正規軍が衝突した。
当時、タンザニアはモザンビークの独立運動を支持し、国内に訓練キャンプを設けていた
モザンビーク宗主国ポルトガルの情報部は、「敵」であるタンザニア正規軍はおろかあらゆるゲリラ軍の情報を
アミンに提供していた。
これらを受けてアミンはそのまま、南部国境に自軍をはりつけていた。
ここまでの状況になるに至って、職業軍人ヌメイリ大統領は、
オボテ、ニエレレ(タンザニア大統領)に「すでに奇襲の威力は無くなった」と警告、
しかし、この辺の危機感が理解できない2人の文民指導者は、計画にゴーをかけた
124 :名無し中団長:2006/02/10(金) 02:43:37 ID:???
72年9月15日、Dデーマイナス2 ダルエスサラーム国際空港で、武装したテロリストによって東アフリカ航空
(タンザニア、ウガンダ、ケニア3国出資の国際航空会社)のDC-9ジェット機が
盗み出されいずこかに飛び去った
勿論、実際はタンザニア公安当局の協力のもと、オボテ軍に貸し出されたもので
キリマンジャロ山麓のアルーシャに途中着陸、挺進隊100人を乗せ、カンパラに向かうはずだった
ところがDC-9は、アルーシャのキリマンジャロ空港で着陸に失敗、大破してしまった。
後に事故調査委員会が出した報告によると
DC-9は、ランディングギアを出しっぱなしで、高度計の調整もしないまま飛行
(これらは、飛行学校で3時間目にマスターすべき基本動作だった)
機は通常なら1時間の旅程を2時間かけて飛んでいた。
しかもこの2時間中、エマージェンシーのサインが出っ放しなのにパイロットは放置
報告書は
「この機は、余程の幸運で空に飛んでいた」と結論付けている
早い話が、オボテの雇ったパイロットは、おそろしく役立たずだったということだった。
125 :名無し中団長:2006/02/10(金) 02:45:40 ID:???
さて、タンザニア国境からの侵攻軍だが、 本来の助攻部隊200人は、15日未明に、北西タンザニアのタボラを進発する筈だった
しかし、コンボイ部隊の将校がトラックのキーをしまい込んだまま逃走。
やっととッ捕まえてキーを奪い取ったが、今度はガソリンタンクがほとんど空っぽ、
仕方がないので、部隊は市内のガソリンスタンドに大挙押しかけ、満タンにした
一方、南スーダンからタンザニアに移動してきた主力部隊も
同じく燃料の入れ忘れがあり、4時間遅れで進発、
攻撃開始地点の国境の町、ブコバに到着したのが2日半遅れの16日
Dデーマイナス0・5、しかも、ここで初めて、
「兵士全員分の小銃が無い」ことに気づいた
やむを得ず、銃は敵から奪うことにして国境を突破。
これだけ大騒ぎしといて奇襲も何もあったものではなく
果して、アミン軍は戦車まで動員、防御陣地を構築して待ち構えており
あわれ侵攻軍は壊滅、降伏した反乱軍兵士も拷問の末、生きたままワニの餌にされた
126 :名無し中団長:2006/02/10(金) 02:46:39 ID:???
ついでに 盟友アミンの危機、を聞いたリビアのカダフィ大佐は
パキスタンから借りたC130輸送機にリビア軍兵士500人
(大部分はパレスチナ人)を乗せ、カンパラへ向かわせた。
ところがスーダン上空で、スーダン空軍のMiG戦闘機がハルツームに強制着陸させた。
オボテの基地は撤去したものの、アミンの戦争ごっこを助けるつもりもないヌメイリは
「リビア本国にまっすぐ帰還する」ことを条件に離陸させた。
パキスタン人パイロットは約束を破ってエンテベに向かったが
このごたごたで2日半が浪費、リビア軍到着時にはすでに反乱は鎮圧されていた。
激怒したカダフィは、このパレスチナ人部隊を、
(本来ならアラブの盟友であるはずの)スーダンに侵攻させようとしたが、
同じくスーダンへの報復を企むアミンと、どちらが統帥するかで折り合わず、断念
パレスチナ人たちはウガンダに残留、
ウガンダ正規軍兵士となり、アミンの身辺警衛はもちろん
反体制分子のあぶり出し、拷問、処刑の指導役として
恐怖政治・独裁政権の一翼を担った
コメント一覧
猫好きは…
ちょっと無理があるか
海外(ヨーロッパ・アメリカ)に留学した経験があるインテリだよね?
いや、鳩山っていう実例が日本にもあるから欠片も笑えないんだけどさ
ギャルのパンティおくれ!
ところである程度の性能のある飛行機は離陸後にとっとと
足をひっこめないと風圧で足が折れ、着陸できなくなる。
わしでも知っとる。