695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/23(日) 13:07:32 ID:ngWSg86R
川村重吉の北上川工事の逸話をもうひとつ。毛利氏の減封に伴い浪人となり、
やがてその才能をみこまれて伊達政宗の家臣となった川村重吉。
荒地を美田にし、領内各地の土木事業に従事した。
そのころ、北上川は山間を通り桃生郡相野谷を東に流れ、
追波湾へと流れつく川だった。
追波湾は暗礁が多く、金華山付近も航行の難所。
そこで重吉は、北上川の流れを南下させて、石巻に港を開くよう提言。
政宗は反対意見を廃し、重吉の提言どおりに工事をするよう命じ、
重吉は人夫たちと寝食を共にして工事を指揮した。
そんなある日、重吉は政宗に工事の進行状況を尋ねられた。
「この辺まで掘り下げました」
重吉は首の辺りに手を当てて深さを示した。
それから少しして、政宗は突然、工事現場まで視察にやってきた。
視察にきてみると、どう見ても掘り下げが浅く、首の辺りまではとてもない。
そこで重吉を呼んで、堀に入ってみろと政宗は命令した。
すると重吉は、堀の中へ入り、そのままそこに座り込んだ。
掘り下げは丁度、座った重吉の首の辺り。
思った以上の難工事に、作業がはかばかしく進んでいない事を
政宗はそれで理解したが、重吉を責めるようなことはなく、
笑いながらその場を立ち去ったという。
この難工事の完成に伴い開かれた石巻港。
ここから積み出された米は江戸に運ばれ、
実に江戸の人々の三分の二が口にしたと言われている。
コメント一覧
あれから復旧が進んでると良いが
石巻に流れてたのを
洪水を減らすために
追波湾のほうに付け替えたんジャマイカ
それは明治の時の工事みたいね
川開きと言ったら「川を泳いでOK」の日ではなく、
川村さんに感謝するお祭りである