517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 14:55:33.12 ID:ijSPW+5s
石田三成が挙兵し、いわゆる関ヶ原の役が進行する中、伏見城留守居の徳川家康家臣・鳥居元忠は西軍との戦いを決意し、籠城の準備を進めていた。
と、その頃宇治の茶師に上林竹庵(政重)というものがいた。
この竹庵が籠城の準備をしている伏見城にやってきて言った
「それがしこの数年来、内府様(家康)に御恩を被り奉りました。であれば、この度私もこちらに、籠城いたします!」
これには鳥居元忠も驚き、彼を説得した
「確かに其の方はかねてから当家のお茶の御用を承り、少しの知行を頂いておる。
だがそれは他の者を超えるほどの御恩というわけでは無いではないか。
そうであるのに今回ここで討ち死にすれば、其の方自身は無用なことをしたものだと言われ、また我々は、城中
無勢であるのに困って商売人までかき集めた、などと言われてしまうだろう。そうなってはお互い面目もないではないか。
とにかくそれは止めるのだ。」
そう、言葉を尽くして諦めるよう言ったが、竹庵はまるで納得せず、
「鳥居様の言うことはたしかに道理です。であれば強いてそれに反論しようとも思いません。
だからといって、先に言った一言を無かった事にして再び宇治に帰ってしまっては、それは私という男の恥でございます!
いたしかたない!ここで切腹いたす!!」
そう、顔色を変えて言い放ったので、流石の鳥居元忠も致し方なく、彼が城中にとどまることを許可した。
元忠は竹庵を太鼓丸の守備に当てた。竹庵は喜び、茶袋を集めて自分の指物にしたという。
そして8月1日、西軍の大軍勢に10日以上も持ちこたえた伏見城も、ついに落城の時を迎えた。
竹庵は兜の代わりに赤い鉢巻を着け、太鼓丸に攻め込んだ鍋島勢に一騎、突撃し、
そこで見事に討ち死にをした。
彼の首をとったのは、鈴木善八と言う者であったという。
伏見城で散った、一人の茶師についての逸話である
(関原軍記大成など)
コメント一覧
実際はそうではなかったんじゃないかという気がする。
安土桃山時代の知識人って、今では想像しにくいぐらい古代中国の
思想に染まっていたから。
その中国思想の一つに
「歴史に名を残すために華々しい死に方をする」
というのがある。
この人は単にそれを実践しただけなんじゃないだろうか。
実際それで名が残っているわけだし。
元々の創作にも
それで?
当時の知識人達はみな華々しく死にたかったの?
あまり半端な知識を振りかざさないほうがいいよ
思想に殉じる覚悟が無いなら
途中送信しただろ
続き→おちんちんびろ〜ん
これでまた一歩日本人に近づいたな。