714 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/26(火) 02:13:45 ID:un3IS8W2
徳川家光で一席、名前に間違いがあるかも知れないが勘弁してください。殿様にの若殿には守り役というものが付いた。
有名なのでは武田信玄には板垣信方、織田信長には平手政秀など歴史に名を残したものがいる。
守り役というのは、家中の中で人格・見識が優れた人物が選抜されるので、たとえ名前を残さずとも
大変名誉ある役職であった。若殿が当主になれば第一の側近にもなるし、守り役として育てた
若殿と枕を並べて討ち死にした例だってある。
そしてその教育方たるや、本当にスパルタンで、若殿であろうと殴る蹴るは当たり前
というより許されていた。
毛利輝元だって、小早川隆景の教育は怖かったと言うくらいである。
さて、徳川家光にも守り役がいた。その名を青山忠俊という。この人も、
戦国時代に戦った事もある面倒くさい三河武士である。
この人が守り役となったのだが、教育方は伝統に則り、
将軍秀忠公認のスパルタ教育を実行したのだ。
例えば、家光は夜歩きが好きだった。まだ江戸時代初期は将軍家の人間でも
ひょいひょいと外出出来たのだ。
家光本人も剣の腕は自信があったが、さすがまずいにということもあり、青山は、
青山「拙者をお手討ちにしてから夜歩きなさいませ。」
と、諫言したくらいだった。他にも、家光が金魚を愛でていたのを、
青山「武士にあるまじきことにござる!こんなもの!」
と、放り投げたりしたそうで、時には手が出る足が出るような教育でもあった。
あまりに諫言をするもんだから、家光は将軍になって最初の命令が何と!
青山家の改易
こうして、坊ちゃん育ちの家光は邪魔者がいなくなったと思ったが、
自分が将軍をやってみると青山の教育が正しい事に気が付いた。
さすがにやりすぎた、青山には悪い事をしたから元の通り再出仕してもらおうと
命令を出したものの、今度は青山が命令を拒否した。曰く、
青山「再出仕の命令を受ければ、将軍が以前の処分が間違っていたと世に知らしめる事になる。
それでは、上様は下のものに示しがつかない。」
だったので、何と死ぬまで復職をしなかった。そこで家光は息子を出仕させる事で
青山家の名誉を回復したという。
コメント一覧
ついでに息子がコネで入ってるし
ついでに息子がコネで入ってるし
ついでに息子がコネで入ってるし
こたつに息子とネコが入ってるし
ストレートだな。
すごく、めんどいです(対応が
「民宿はおやめください。私も何度か家康公のお首を狙ったことがございます」と言ったとか。
嫌な若大将だな!w
ホモですなぁ(しみじみ)