645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/06(金) 23:07:36 ID:LixUx5z3
秀吉の時代のことである摂津国鳴尾村は、三年にわたる旱魃に苦しんでいた。
そしてついに、隣村の瓦林村が新川から水を引き込んでいる枝川から、
空の四斗樽の底を抜いて、つなぎ合わせて作ったといを使って、その水を密かに
自分達の田に引き込んだ。
水盗みである。
瓦林村も水に余裕があったわけではない。事はたちまち発覚し、
鳴尾村と瓦林村との騒乱に発展した。
この騒ぎに大阪城より奉行が派遣され、騒ぎの原因は、鳴尾村による水盗みである事が確認された。
水盗みは当然、重罪であった。
奉行たちからこの話を聞いた豊臣秀吉は、鳴尾村の責任者たちに、このように言った。
「お前達、水がほしいか、命がほしいか、どちらかを選ばせてやろう。」
村のものたちはこの時既に、覚悟を決めていた。
「命をいただいても、水がなければ我々はどのみち生きてはいけません。
水さえあればこの村は生きながらえる事ができます。
どうか命より水を下さい。」
それを聞いた秀吉は、「ならば鳴尾村の者達が引き入れた水はそのままにしておこう。
ただし、この水盗みにかかわった者は、全員磔にせよ。」
そう命じた。
奉行は鳴尾村の者たちに、水引のために使った空樽の数だけ磔にする、そう言った。
村の者たちは、樽の数は二十五だと答えた。
水引のといは、100メートル以上もあった。それに使った樽が、二十五で足りるわけがない。
どう少なく数えても、百を下回ることはなかったであろう。
だが、奉行はそれを聞き届けた。
「二十五個だな。では、二十五人を磔とする。」
「その前に」村の者たちは言った、「我々が処刑されれば必ず水がいただけるという、
起請文を下さい。」
奉行の名による起請文は、村人の代表二十五人の処刑の日、鳴尾村に渡された。
これ以後、鳴尾村では旱魃に悩む事は無くなったと言う。
現在、鳴尾村の場所にある、西宮の北郷公園には、この時死んだ二十五人の村人を称えた
義民碑が建立されている。
コメント一覧
そいつだけでなく、秀吉本人にだって、干魃対策を進める政治的責任があるだろう。
水に流してくれたんだろうな
戦国武将なんて名前で呼ぶから何かかっこいいと勘違いする馬鹿がいるが
早い話が重装備のヤクザだもんな
やってることといえば、下々からミカジメ料巻き上げる(払わないと殺す)のと
同業ヤクザ同士の抗争(これを合戦と呼ぶ)だけ
その論理だと軍隊も重武装のヤクザだし
税金はみかじめ料だし
戦争も同業ヤクザ同士の抗争だな
僕の国では税金には公共サービス、就中福祉事業の対価があるし
軍隊はその公共サービスの主体である政府によって、法に基づいて統率され
その政府は僕らによる民主選挙によって選ばれてる
君の国の政府や軍隊は日本の戦国時代の大名みたいに
一握りの特権階級・血族によって独占・統率され
税金は好きな時に好きなだけ搾り取られ、相応の見返りは決して無く
払えなければ問答無用で殺されるような酷い状態なのかい?
戦国武将なんて全員死ねばいいのに。
死んだね
福利厚生?なんだいそりゃ?
弱い者、老いた者が死ぬのは当然至極でお天道様の機嫌にゃ絶対逆らえない時代の治世に現代のもやしっ子が文句垂れてんじゃないよ
もやしっ子ばかりの緩みきった現代社会で一人、厳しい戦国時代の精神で生きる俺様かっけー
瓦林村は水を盗られっぱなしだよね。
そちらへの顔も立てなければならないから
水を盗んだ奴を磔にしなければならなかった
「うちの親父が自殺したんだからお前のところの財産よこせ!」
でいいんかな…
顔うんぬん以前に水に余裕がないところ持ってかれたから騒ぎになったような