11: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:28:54 ID:EXD
識字率は世界トップクラス20: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:40:48 ID:9Bz
江戸時代と言っても250年あるので、一口に「江戸時代の貨幣価値に換算すると~」と言っても時代によって相当差がある
1両=60万円だった時もあれば、1万円もしなかった時もある
23: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:42:18 ID:MFa
明治維新から現在までの時間より、江戸幕府開闢から明治維新までの時間の方が遥かに長い
27: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:46:08 ID:MFa
江戸の街は蚊取り線香のように渦巻き状に巨大化していったため、都市計画が微妙ではあったけど驚くほど早く拡大してゆくことができた
30: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:47:46 ID:p3z
「二階で小便する」というのは吉原に行って来たという隠語当時、二階に便所があるのは吉原の遊郭くらいだったため
32: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:48:03 ID:qYj
江戸の街に住む町人は、ほぼ全てがフリーターでその日の生活費をその日に稼ぎ、一日で大抵使いきっていた
「宵越しの銭は持たない」というのはそれを表した負け惜しみ
36: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:50:49 ID:9Bz
世界初の有人グライダー飛行は日本人だった可能性がある。江戸時代中期に浮田幸吉という人物が飛行したという記録が残っているが、
当時は狂人扱いされた上に記録もあいまいなため謎のまま。
37: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:52:48 ID:qYj
江戸時代、数の子は下衆な食べ物として安く流通していたその理由は、食べるときに音が大きく鳴るため
江戸っ子の間では、音のならない食べ物が粋として持て囃されていた
しかし、数の子は塩っ気があるため、飯がとにかくよく進んだ
そのため、来客にはあまり出されなかったと言われる
39: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:54:07 ID:hgH
下町とは、城下町のことで、現在の千代田区あたりの事だった現在、下町と呼ばれている浅草や上野はお寺の街なので門前町
他に宿場町、港町、屋敷町などがある
41: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:56:02 ID:qYj
関所はとにかく厳しく、通行手形がないと断じて通れないと思われているが、それは間違い特別厳しいのが箱根の関所というだけで(しかもそれも別にそんなに厳しくはない)、
他の関所はほとんど総スルーで通れた
なので、町民のみならず子どもたちまでも伊勢参りにも行けたわけである
ちなみに取り調べを受けるときは、対象が女性だった場合はちゃんと女性の係員に取り調べさせた
47: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:02:34 ID:AXj
寿司は屋台。大きさはおにぎりくらい大きかったのれんは客が帰り際に手を拭くために掛かってた
49: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:03:27 ID:qYj
大名行列は、別に地面に膝をついて土下座をして見送らなければならないものではないそれは将軍の行列のみで、他の大名に関してはやれ家の屋根に登って見物したり、茶屋で
お茶を飲みながら見物したりと、それぞれ好き勝手な態勢でいた
また、行列の前に身を乗り出したとしても、いきなり切り捨て御免とはならず、一番前の武士に
追い払われて終わるか、その前を走る露払いに排除されてお咎め無しであった
51: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:06:04 ID:qYj
公魚(わかさぎ)は、徳川家康が大好物だったためにこの漢字が付いた57: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:09:52 ID:p3z
侍は味噌汁には必ず菜っ葉を入れ、まずそれを箸で上げて戻し、最後に菜っ葉を食べていた「菜を上げる(名を上げる)」、「菜を残す(名を残す)」に引っ掛けた願掛けである
63: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:14:47 ID:qYj
江戸時代はフグが普通に魚屋で売っていた片手にフグを持った友人が、一杯やろうと家を訪ねてくる
それを断れるのは、基本的に女房持ちに限定されていた
女房持ち以外の者が断ると、臆病者扱いを受けることになる
それだけは江戸っ子として、なんとか避けたかった
そして、今日もまた人死にが出るわけである
65: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:16:21 ID:AXj
江戸時代の国学者、本居宣長が居なければ現代に於いて古事記は読めない。
当時、古事記は解読不能だった。それを約35年掛けて解読した
68: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:22:39 ID:p3z
全国で最も百姓一揆が頻発したのは南部藩の156回二年に一度百姓一揆が起こっていた計算になる
とりわけ、幕末に起きた百姓一揆は、百姓たちが強訴ではなく仙台藩への集団移住を望んだため、
それにより南部藩は仙台藩に借りができてしまった
南部藩が奥羽列藩同盟に参加したのはこのことが遠因だと言われている
コメント一覧
首にそれ用の籠をつけて、伊勢方向へ向かう人へ託してリレー形式で伊勢神宮まで行き、
籠にお札を入れて貰ってまたリレー形式で帰ってくる。
こういう代理犬を世話する事もご利益があり、粗末に扱うと罰があたるとされ、
犬たちは各地で丁重に扱われ、かなりの確率で無事戻って来たそうな。
古事記にもそう書かれている
サムライは禁止されていた
武士の命は主君に捧げるものであって
贅沢のあげく食中毒で死ぬなんて不忠もいいところ
「おのれ、どっちが強いか神妙に勝負しろ!」
「望むところだ!」
的な話になったとき、剣術ではなく
釣りで勝負だったくらい釣りキチだったらしい。
暇だったわけではない。
当時は掃除機やコンビニやプロパンガス配送会社なんてない。
ちょっと感心した
豆腐を賽の目に切り水気をよく拭いたら油でこんがりと揚げ、塩をふって熱々を頂く。
ツマミにオススメ。