649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 22:58:08 ID:ODhpooIQ
島津亀寿は前夫・久保が朝鮮で陣没した後、家久(忠恒)と結婚した。これによって家久は薩摩太守の跡継ぎとなっており、つまり島津宗家の相続権は、亀寿にあったようである。
家久はこれが相当不満だったようで、養父・義久の死後、亀寿がその隠居所である国分を
弔問のために訪れると、そのまま彼女を蟄居させてしまった。 国分での彼女の生活は
かなり苦しいものだったようで、見かねた義弘が伊勢貞昌に対策を命じている。
亀寿は臨終の床で、隠し持っていた島津家の重宝(この為家久に殺されなかった)を
老臣・山田有栄に託した。その際も、
「いいですか、これは必ず又三郎殿に渡して下さい。家久殿じゃなくて又三郎殿ですよ!!」
と、わざわざ言い残して死んだ。
遺言は守られ、重宝を相続した又三郎こと光久が亀寿の養子となり、島津宗家を継いだ。
(武功雑記より)
しかし、彼女の苦難は死後も続いた。
寛永9年(1632)、その話を聞いた家老・北郷忠能は、主君の書斎へ転がり込んだ。
「と、とのー!一大事、一大事にござる!家久様がまたしでかしてくれましたぞ!」
「うるせーな、今さら父上がナニやろうと驚かねーよ。今度はなんだ?」
「いえ、先年亡くなられた亀寿様の墓ですが」 「養母上?高野山で祀ってるんじゃね?」
「その墓が、ありませぬ。」 「・・・ちょっと待て、言ってる意味がわからん。」
「ですから、高野山に納骨したというのは家久様のウソで、お骨はまだ国分に放置。
つまり元太守の娘、前太守の妻、現太守の養母の 墓 が あ り ま せ ん。」
驚いた光久は至急、亀寿の遺骨を高野山に納骨した。また、薩摩本国にも菩提寺を建て、
家臣たちに彼女の祥月命日の5日には、必ず参拝するよう命じた。
(旧記雑録より)
鹿児島県立美術館の敷地に『ジメサア』と呼ばれる石像がある。
ジメサアとは亀寿の法号『持明院様』のなまったものであり、その説明には
『持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が
尊敬され、人々は 『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』 夫人の人柄を
慕い、毎年10月5日の命日には、この像におしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるように
おまいりするならわしが残っています』
と、なっている。 不遇の人生を送り、死後まで『ブス』と言われる彼女に、合掌。
650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 23:05:51 ID:Es8rmkIY
>>649(´;ω;`)ブワッ
ってか、幸せな家庭って・・・
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