アンサイクロペディアに嘘を言わせなかった男
コピペ投稿者:名無しさん
コピペ投稿日時:2008/12/03 18:50
コピペ投稿日時:2008/12/03 18:50
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel、 1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦の際に活躍したドイツ軍人。ソ連人民最大の敵。スツーカの悪魔、爆撃の魔王。そしてパイロットである。朝起きて出撃して朝飯食って牛乳飲んで出撃して昼飯食って牛乳飲んで出撃して夜飯食って牛乳飲んで出撃してシャワー浴びて寝るという毎日を送ってたら、いつのまにか戦車519台を撃破し、世界最強の戦車撃破王になっていた。
なお航空機撃墜数も9機なので、れっきとしたエースである。間違いなく彼のスコアは世界記録であり今後絶対に更新されることは無いだろう。
負傷事件
* 飛行中敵の対空砲で撃たれ片足が吹っ飛んでしまったとき、後部機銃手にして相棒のガーデルマンに足が無くなってしまったと言ったら「そんなことはないでしょう。足が吹っ飛んだら、話なんかしていられるもんですか」と言われた。
* 対空砲に撃たれて片足を失い病院送りになった際、珍しく咽び泣く。さすがに片足になったら辛いのだろうと見舞い客が慰めの言葉をかけると、「足はまだ一本残っているからどうでも良い。ソ連の戦車をしばらく撃破出来ないのが悔しい」という事だった。
* その後義足で復帰したルーデルは休暇中も書類を偽造して出撃し、病院送りになっても病室を抜け出してまで出撃し、やっぱり相変わらずソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという。ちなみにその後、この無断出撃が発覚してルーデルは軍医に怒られるのだが、その発覚した理由というのが本人曰く誰が破壊したのかわからない戦車が多過ぎた為であった。
* ある日、対空砲によって撃墜され、後席に座っていたガーデルマン共々重傷を負ったルーデル。ところが彼は自力で陣地へと復帰。先に救出され治療を受けていたガーデルマンを見つけるや否や「休んでいる暇はないぞガーデルマン、出撃だ!!」と言って彼を引っ張って戦場に向かったという。
* そうして積み重ねたルーデルの戦果が余りにも凄すぎた為、アドルフ・ヒットラーも次々に勲章を贈与していたのだが、とうとう彼に見合う勲章が尽きてしまった。そこで遂にルーデルの為だけに最高位勲章を新設することになり、黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章なるとんでもない勲章を受け取った。これを受賞したのは全独逸兵士中、ルーデルのみである。
o なおこの勲章は、ルーデルに続く新たなる英雄が現れることを願い、円卓の騎士に準えて合計12個作られたのだが、結局他に受賞した者はいない。いる筈も無い。
* そんなルーデルが戦死する事を恐れたのか、ヒトラーは再三にわたって「もう飛行勤務しなくて良い!」と言っていたのだが、その悉くを拒否。前述の勲章を授与された際「もう二度と私に地上勤務をしろと言わないのならば、その勲章を受け取りましょう」と言い放ったという。
* 総統閣下がハルトマンに勲章を授けるときに「君達やルーデルのような者が、もっと大勢居ればなぁ」等とぼやいていた。
部下の救助
* 部下の乗ったスツーカが被弾して不時着したため、彼らを救うべくルーデルもスツーカを戦場に着陸させる。
* 不時着した部下二人とは首尾よく合流できたものの、いざ飛び立とうという段になってスツーカが突然のエンスト。4人は敵地に取り残されてしまった。一番近い味方の陣地までは約40キロ。
* 機銃手のヘンシェルが「ソ連軍に捕まるくらいなら川に飛び込もうよ!」と言うので幅600ヤード、水温4℃の河を泳いで渡る。ルーデルと部下二人はどうにか泳ぎきったものの、ヘンシェルは真っ先に沈む。
* 味方のルーマニア兵だと思って話しかけたソ連兵からSMGの銃撃を受ける。肩に一発食らうが他の弾は全てかわす。そのまま走って離脱。だが救出した部下二人ともここではぐれてしまう。
* 軍用犬まで出して数百人体制での捜索が始まるが、回避。
* 民家発見。窓から侵入しようとしたら、住人に見つかって怒られる。謝ってドアから入りなおしたルーデルは、住人の老夫婦と意気投合。老夫婦と同じベッドで川の字に就寝し、次の日に礼を述べて立ち去った。
* その後、約40キロを二日で踏破して味方陣地にたどり着く。全身負傷、服はぼろぼろ、泥まみれ血まみれのルーデルは、最初味方兵士にすらドイツ軍士官だと信じてもらえなかったという。無論、すぐさま帰還し入院せよとの命令が下った。
* 無論速攻で無視した。理由は「帰国する気持ちになれない」。
* 翌々日、中隊はルーマニアのヤッシーへ移動。その際ルーデルのためにと、ワザワザ後方から軍医が派遣されてきた。無論これも無視して他の隊員とともに前線へ。彼曰く、「肩の傷など問題とせず、私は敵攻撃に向かうつもりだ」(※原文ママ)
* しかもヤッシーに着いて早々(つまり帰還してから二、三日後)、怪我して体中ボロボロな状態でバルチにいた強力な敵装甲部隊を爆撃してこれを文字通り殲滅し、 一日目で17台、二日目で9台の合計26台の戦車を破壊している。
* 当時の戦況や部隊編成などから考えて、遭遇した機甲部隊の総兵力が100台以下なのは間違いない。即ちルーデル一人で少なくとも四分の一を撃破した計算になる。
* その際の言葉、「最後の出撃のときは、目を皿のようにしなければならなかった」(※原文マm) 、「どこにも戦車の姿は見えない」(※原文m) 、翌朝の明け方の偵察では、「すべてが静かに、まるで死んだように見える」(※g)
* なおこの事件が元で、ルーデルには「味方飛行場以外での着陸を禁ずる」という前代未聞の命令が下された。
* そのため、後日不時着した友軍パイロットを発見した際には、降下→そのまま地表を滑走→救助、乗載→再離陸、という流れで、一応「着陸はすることなく」救助を達成している。ルーデル本人はうまくトンチで出し抜いてやったと自賛していたことであろうが、ただしこれは普通のパイロットにとっては、敵地着陸などとは比較にならないほど危険な変態機動であったことは言うまでもない。
ある日のルーデル(新型戦車編)
* ブダペストにて新型のソ連軍戦車らしき物を発見したが「イワンめ、また新型を作りおったか」と即座に破壊した。ちなみにルーデルによればこの日はイワンにとって最悪の日であったそうだが、果たしてルーデルの出撃した日でそうでない日があったのか非常に疑わしい。
* で、この時破壊した新型戦車の残骸を確認しようと舞い戻ったら高射砲の攻撃を受け被弾。ルーデル自身も負傷したがなんかこう始め左足が刺すように痛かったのがだんだんと恍惚感に変わってきたそうである。ルーデルが「ブダペストまで持つかな?」と言ったのに対して「大丈夫ですよ」とさらりと返した。
* さらに医者に「退院まで6週間かかる」と言われたそうであるが、入院8日目にソ連軍が迫りつつある事を知ると「よし行こう! すぐ退院だ!」と病院を飛び出してしまった。このとき医者は力無く首を振っていたそうである。
投降
* 連合軍に捕虜として投降したルーデル。「ドイツ式の敬礼をやめてくれないか? あと、英語が話せたら英語で頼む」と士官に言われる。対するルーデル。表情一つ変えずに口を開いた。
* 「私は習った通りに敬礼をしているだけだ、改める気はない。そしてここはドイツだ。頼まれたってドイツ語以外は喋りたくないね。そもそもドイツ空軍は空の戦いで破れてなどいない。ただ圧倒的な物量によって押し潰されただけだ」
* そして唖然とする米軍士官に「……ま、そんな事はどうでもよろしい。シャワーと食事を頼む」と要求。あんた命が惜しくないのか。
* 幸い連合軍は心が広かったらしく、軍服や勲章を取り上げられる事も無く、一度は盗まれた義足も無事戻り、更に戦争犯罪にも問われなかった。
捕虜収容所
* 投降したルーデルは連合軍からさまざまな尋問を受けるのだが、最もしつこく質問されたのは彼の乗機にはどんなカスタムが施されていたかについてだった。ルーデルは高射砲に落とされたことはあっても戦闘機に撃墜されたことは皆無だから、回避性能を増すためにさぞかし凄まじい改造をしたに違いないと想像する連合軍将校に、ルーデルは短くこう答えた。
* 「戦車の装甲をぶち抜けるよう、37mm対戦車機関砲を外付けしてもらった」
* なんと、当時の平均的な戦闘機の半分程度しかないスツーカの速力とか機動力とかはそのまんま、いやむしろバランスが悪くなるため、通常のスツーカよりもさらに性能が低下していたのだ。そんなんで戦闘機に狙われて生き延びれるわけが無いと指摘する連合軍将校に、ルーデルはこともなげにこう言ったという。
* 「そんなに不思議なのかね? 私にはこれという秘訣は無かったのだが……」
その後のルーデル(戦後編)
* 終戦後は南米に脱出。独裁者と友人になったりしながら実業家として過ごし、20歳年下(15歳)の嫁さんを貰った。
* 実はこの15歳の嫁さん、まだルーデルがドイツで猛威を振るっていた時にはもう既に、当時5歳だった彼女と入籍をすませてあったのだ! 本人は式も挙げたかったようだが、それは適わず彼女が15歳になった時、改めて式を挙げたようだ。ルーデルが負傷して入院した際も付き添っており、ルーデルの見舞いに来た人間は、皆複雑な目で彼女を見ていたらしい。
* そしてフェアチャイルド社に頼まれてA-10神の開発に尽力。このA-10が「速度は遅くとも良いから何発撃たれても落ちず戦車を一発で吹っ飛ばせる」代物になったのは、ルーデルの発案によるとも言われ、お陰で米軍歩兵からは大絶賛される傑作機となり、ルーデルの技術が近代戦でも応用できる事を証明した。
* 『急降下爆撃』を始めとする自伝を執筆。'「ローマ教会が脱出に手を貸してくれて助かった」だの「ナチスの戦争は正しかった」だのと'空気を読まない発言を繰り返し、色々な人の肝を冷やさせた。のみならずドイツ軍に招かれて公演を行った際、上記のことを堂々と力説。結果としてルーデルを招いた二人の軍人が責任を取るため退役に追い込まれた。
* 未だ各地で戦犯として拘束されている戦友を救出し、或いは逃走を続けている彼らへの支援を行うべく『ルデル・クラブ』を結成。まっとうなドイツ軍人支援組織だったものの、欧米で執筆された多くの冒険小説では「ナチス残党が結成した謎の秘密結社」扱いであり、更にルーデルはその恐るべき首領扱いだったが、
* また義足でありながら登山にも精を出す。アンデス山脈の最高峰の一つ、ユヤイヤコ(6,900m)にも挑むが、その際に友人であるノイベルトが滑落し、死亡。一旦下山して死体を捜索、発見したルーデルは、唖然とするガイドたちをよそに友人の亡骸を担いで再度山を登り始めた。で、数時間後に帰還しての第一声が「これからノイベルトはずっと、この山の頂で眠るんだ」 ……友人思いではあったらしい。
* 1982年に死去。その葬儀の際、西ドイツ空軍機2機が(筋金入りのナチスシンパで知られる彼のために)追悼飛行を行い、ナチス式の敬礼をする元軍人やら、元ナチス党員やら、ネオナチやらが参列し、戦時中の国歌やら軍歌やらが盛大に流され、またまた大問題に発展する。
なお航空機撃墜数も9機なので、れっきとしたエースである。間違いなく彼のスコアは世界記録であり今後絶対に更新されることは無いだろう。
負傷事件
* 飛行中敵の対空砲で撃たれ片足が吹っ飛んでしまったとき、後部機銃手にして相棒のガーデルマンに足が無くなってしまったと言ったら「そんなことはないでしょう。足が吹っ飛んだら、話なんかしていられるもんですか」と言われた。
* 対空砲に撃たれて片足を失い病院送りになった際、珍しく咽び泣く。さすがに片足になったら辛いのだろうと見舞い客が慰めの言葉をかけると、「足はまだ一本残っているからどうでも良い。ソ連の戦車をしばらく撃破出来ないのが悔しい」という事だった。
* その後義足で復帰したルーデルは休暇中も書類を偽造して出撃し、病院送りになっても病室を抜け出してまで出撃し、やっぱり相変わらずソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという。ちなみにその後、この無断出撃が発覚してルーデルは軍医に怒られるのだが、その発覚した理由というのが本人曰く誰が破壊したのかわからない戦車が多過ぎた為であった。
* ある日、対空砲によって撃墜され、後席に座っていたガーデルマン共々重傷を負ったルーデル。ところが彼は自力で陣地へと復帰。先に救出され治療を受けていたガーデルマンを見つけるや否や「休んでいる暇はないぞガーデルマン、出撃だ!!」と言って彼を引っ張って戦場に向かったという。
* そうして積み重ねたルーデルの戦果が余りにも凄すぎた為、アドルフ・ヒットラーも次々に勲章を贈与していたのだが、とうとう彼に見合う勲章が尽きてしまった。そこで遂にルーデルの為だけに最高位勲章を新設することになり、黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章なるとんでもない勲章を受け取った。これを受賞したのは全独逸兵士中、ルーデルのみである。
o なおこの勲章は、ルーデルに続く新たなる英雄が現れることを願い、円卓の騎士に準えて合計12個作られたのだが、結局他に受賞した者はいない。いる筈も無い。
* そんなルーデルが戦死する事を恐れたのか、ヒトラーは再三にわたって「もう飛行勤務しなくて良い!」と言っていたのだが、その悉くを拒否。前述の勲章を授与された際「もう二度と私に地上勤務をしろと言わないのならば、その勲章を受け取りましょう」と言い放ったという。
* 総統閣下がハルトマンに勲章を授けるときに「君達やルーデルのような者が、もっと大勢居ればなぁ」等とぼやいていた。
部下の救助
* 部下の乗ったスツーカが被弾して不時着したため、彼らを救うべくルーデルもスツーカを戦場に着陸させる。
* 不時着した部下二人とは首尾よく合流できたものの、いざ飛び立とうという段になってスツーカが突然のエンスト。4人は敵地に取り残されてしまった。一番近い味方の陣地までは約40キロ。
* 機銃手のヘンシェルが「ソ連軍に捕まるくらいなら川に飛び込もうよ!」と言うので幅600ヤード、水温4℃の河を泳いで渡る。ルーデルと部下二人はどうにか泳ぎきったものの、ヘンシェルは真っ先に沈む。
* 味方のルーマニア兵だと思って話しかけたソ連兵からSMGの銃撃を受ける。肩に一発食らうが他の弾は全てかわす。そのまま走って離脱。だが救出した部下二人ともここではぐれてしまう。
* 軍用犬まで出して数百人体制での捜索が始まるが、回避。
* 民家発見。窓から侵入しようとしたら、住人に見つかって怒られる。謝ってドアから入りなおしたルーデルは、住人の老夫婦と意気投合。老夫婦と同じベッドで川の字に就寝し、次の日に礼を述べて立ち去った。
* その後、約40キロを二日で踏破して味方陣地にたどり着く。全身負傷、服はぼろぼろ、泥まみれ血まみれのルーデルは、最初味方兵士にすらドイツ軍士官だと信じてもらえなかったという。無論、すぐさま帰還し入院せよとの命令が下った。
* 無論速攻で無視した。理由は「帰国する気持ちになれない」。
* 翌々日、中隊はルーマニアのヤッシーへ移動。その際ルーデルのためにと、ワザワザ後方から軍医が派遣されてきた。無論これも無視して他の隊員とともに前線へ。彼曰く、「肩の傷など問題とせず、私は敵攻撃に向かうつもりだ」(※原文ママ)
* しかもヤッシーに着いて早々(つまり帰還してから二、三日後)、怪我して体中ボロボロな状態でバルチにいた強力な敵装甲部隊を爆撃してこれを文字通り殲滅し、 一日目で17台、二日目で9台の合計26台の戦車を破壊している。
* 当時の戦況や部隊編成などから考えて、遭遇した機甲部隊の総兵力が100台以下なのは間違いない。即ちルーデル一人で少なくとも四分の一を撃破した計算になる。
* その際の言葉、「最後の出撃のときは、目を皿のようにしなければならなかった」(※原文マm) 、「どこにも戦車の姿は見えない」(※原文m) 、翌朝の明け方の偵察では、「すべてが静かに、まるで死んだように見える」(※g)
* なおこの事件が元で、ルーデルには「味方飛行場以外での着陸を禁ずる」という前代未聞の命令が下された。
* そのため、後日不時着した友軍パイロットを発見した際には、降下→そのまま地表を滑走→救助、乗載→再離陸、という流れで、一応「着陸はすることなく」救助を達成している。ルーデル本人はうまくトンチで出し抜いてやったと自賛していたことであろうが、ただしこれは普通のパイロットにとっては、敵地着陸などとは比較にならないほど危険な変態機動であったことは言うまでもない。
ある日のルーデル(新型戦車編)
* ブダペストにて新型のソ連軍戦車らしき物を発見したが「イワンめ、また新型を作りおったか」と即座に破壊した。ちなみにルーデルによればこの日はイワンにとって最悪の日であったそうだが、果たしてルーデルの出撃した日でそうでない日があったのか非常に疑わしい。
* で、この時破壊した新型戦車の残骸を確認しようと舞い戻ったら高射砲の攻撃を受け被弾。ルーデル自身も負傷したがなんかこう始め左足が刺すように痛かったのがだんだんと恍惚感に変わってきたそうである。ルーデルが「ブダペストまで持つかな?」と言ったのに対して「大丈夫ですよ」とさらりと返した。
* さらに医者に「退院まで6週間かかる」と言われたそうであるが、入院8日目にソ連軍が迫りつつある事を知ると「よし行こう! すぐ退院だ!」と病院を飛び出してしまった。このとき医者は力無く首を振っていたそうである。
投降
* 連合軍に捕虜として投降したルーデル。「ドイツ式の敬礼をやめてくれないか? あと、英語が話せたら英語で頼む」と士官に言われる。対するルーデル。表情一つ変えずに口を開いた。
* 「私は習った通りに敬礼をしているだけだ、改める気はない。そしてここはドイツだ。頼まれたってドイツ語以外は喋りたくないね。そもそもドイツ空軍は空の戦いで破れてなどいない。ただ圧倒的な物量によって押し潰されただけだ」
* そして唖然とする米軍士官に「……ま、そんな事はどうでもよろしい。シャワーと食事を頼む」と要求。あんた命が惜しくないのか。
* 幸い連合軍は心が広かったらしく、軍服や勲章を取り上げられる事も無く、一度は盗まれた義足も無事戻り、更に戦争犯罪にも問われなかった。
捕虜収容所
* 投降したルーデルは連合軍からさまざまな尋問を受けるのだが、最もしつこく質問されたのは彼の乗機にはどんなカスタムが施されていたかについてだった。ルーデルは高射砲に落とされたことはあっても戦闘機に撃墜されたことは皆無だから、回避性能を増すためにさぞかし凄まじい改造をしたに違いないと想像する連合軍将校に、ルーデルは短くこう答えた。
* 「戦車の装甲をぶち抜けるよう、37mm対戦車機関砲を外付けしてもらった」
* なんと、当時の平均的な戦闘機の半分程度しかないスツーカの速力とか機動力とかはそのまんま、いやむしろバランスが悪くなるため、通常のスツーカよりもさらに性能が低下していたのだ。そんなんで戦闘機に狙われて生き延びれるわけが無いと指摘する連合軍将校に、ルーデルはこともなげにこう言ったという。
* 「そんなに不思議なのかね? 私にはこれという秘訣は無かったのだが……」
その後のルーデル(戦後編)
* 終戦後は南米に脱出。独裁者と友人になったりしながら実業家として過ごし、20歳年下(15歳)の嫁さんを貰った。
* 実はこの15歳の嫁さん、まだルーデルがドイツで猛威を振るっていた時にはもう既に、当時5歳だった彼女と入籍をすませてあったのだ! 本人は式も挙げたかったようだが、それは適わず彼女が15歳になった時、改めて式を挙げたようだ。ルーデルが負傷して入院した際も付き添っており、ルーデルの見舞いに来た人間は、皆複雑な目で彼女を見ていたらしい。
* そしてフェアチャイルド社に頼まれてA-10神の開発に尽力。このA-10が「速度は遅くとも良いから何発撃たれても落ちず戦車を一発で吹っ飛ばせる」代物になったのは、ルーデルの発案によるとも言われ、お陰で米軍歩兵からは大絶賛される傑作機となり、ルーデルの技術が近代戦でも応用できる事を証明した。
* 『急降下爆撃』を始めとする自伝を執筆。'「ローマ教会が脱出に手を貸してくれて助かった」だの「ナチスの戦争は正しかった」だのと'空気を読まない発言を繰り返し、色々な人の肝を冷やさせた。のみならずドイツ軍に招かれて公演を行った際、上記のことを堂々と力説。結果としてルーデルを招いた二人の軍人が責任を取るため退役に追い込まれた。
* 未だ各地で戦犯として拘束されている戦友を救出し、或いは逃走を続けている彼らへの支援を行うべく『ルデル・クラブ』を結成。まっとうなドイツ軍人支援組織だったものの、欧米で執筆された多くの冒険小説では「ナチス残党が結成した謎の秘密結社」扱いであり、更にルーデルはその恐るべき首領扱いだったが、
* また義足でありながら登山にも精を出す。アンデス山脈の最高峰の一つ、ユヤイヤコ(6,900m)にも挑むが、その際に友人であるノイベルトが滑落し、死亡。一旦下山して死体を捜索、発見したルーデルは、唖然とするガイドたちをよそに友人の亡骸を担いで再度山を登り始めた。で、数時間後に帰還しての第一声が「これからノイベルトはずっと、この山の頂で眠るんだ」 ……友人思いではあったらしい。
* 1982年に死去。その葬儀の際、西ドイツ空軍機2機が(筋金入りのナチスシンパで知られる彼のために)追悼飛行を行い、ナチス式の敬礼をする元軍人やら、元ナチス党員やら、ネオナチやらが参列し、戦時中の国歌やら軍歌やらが盛大に流され、またまた大問題に発展する。
コメント一覧
そしてこれからも
この人のお陰だったのかー。
対地が楽です。ありがとう。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080718_hans_ulrich_rudel/
物腰柔らかだか残酷ってのはカコイイ
とりあえず5歳の嫁が裏山
とりあえず、楽しそうな人生だ。
短いわ
お前ら掲示板は読めても
本など一生読めないんだろう
い戦ってんのねw。
ルーデル閣下の御意思は受け継がれている・・・