297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:21:11.47 ID:lDWxsm2t
弘治元年(1555年)11月7日、赤松本家の置塩城に、義祐の弟・才伊三郎がやってきて、宴が催された。相賀光重と下毛野武盈は、この時の詳細を『播州置塩夜話 六花亭物語』(播陽万宝知恵袋と播磨鑑に収録。)に記している。
では、「赤松のシェフ」が書き残した饗宴を追体験してみよう。(六花亭は置塩城の茶亭の名前らしい。)
才殿は晩7つ刻にお越しになり、ご馳走が始まった。
最初に供したのは「狸食」。
本膳の真ん中に白飯、右に澄ましのかけ汁が入った汁椀、左にはネギ、柚子、大根、唐辛子などを刻んだ「かうとう」(香頭=吸い口)の入った盃を置いた。
食椀の底には鴨、鯛、スルメ、シイタケ、麩、干瓢、きくらげ、ゴボウ、人参、大根、こんにゃく、雪豆腐、昆布などが隠されていて、
香頭を汁に混ぜ、食椀にかけていざ喰おうという時に、何の変哲もない白飯の下から色々なものが出てくるのだ。
化かされたような心地になるということで、この料理を「狸食」というのだとか。
次の膳は、真ん中に味噌仕立ての雁汁、右に刺身(鯉、スズキ、チヨク、煎り酒を高麗の皿に盛ったもの)、
左に貝焼き(大貝、アワビ、シイタケ、クラゲ、干瓢、レンコン、玉子油豆腐、玉子油こんにゃく、ウズラ、鴨など)
次は食椀、御汁を左の方に置き、膳の脇に鯉の味噌煮、鮭の塩引き、シギかウズラの焼き鳥を添えた。
それに、宝命酒1返と、熊掌(油揚げにして、澄まし汁に酒を入れて調味したもの。生姜をすり入れて味を付けた。)を供した。
さらに
・チンタの酒(赤ワイン)1返と、ウニ
・延命酒1返と、タラの吸い物(澄まし仕立て)、剥き海老、かまぼこ(播磨鑑ではカマスゴ(イカナゴ))
・御酒1返と、玉子のふわふわ、クシコモドキ(クシコを細かに切り、ふわふわに入れる)
を供した。ここまでは屋形殿と才殿二人だけで召し上がった。
才殿の家老の神村と太刀持ち2名は、秋津民部や御屋形の太刀持ちとともに、玄関の内「具足の間」で、
狸食、鯉の刺身、鴨汁、イカの青和え、飯、鮭の塩引き、鱈の吸い物、御酒、かまぼこ、剥き海老、御酒、サザエの壺炒り、御酒、鮎の寿司を食べている。
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:23:44.30 ID:lDWxsm2t
ここで中入りとなり、ご相伴の者たちが加わって乱酒が始まった。松竹の台に載せられた肴(色々の刻み物、組み物(盛り合わせ))と、二合入り、三合入り、五合入りの椰子盃が出され、
家老や重臣達がそれを頂き、拙者(下毛野)も家老に御盃を頂いた。
猿楽師・明石小大夫は
「天津神、八千代も同じ日ノ本の、光絶えせぬ神の道、今末の世に受け継ぎて、下方民に至るまで、君の恵みを仰ぐなり♪」
と小謡を披露。
この時、鯛イッコンヤキ(ホンテ)、ナマコ・クラゲ・角小ヘキのふくら炒り、辛螺(巻貝イボニシ)の壺炒り、延命酒、ふわふわ、吸い物が各自に供された。
置塩家老・山田助九郎は、才殿の家老・神村を呼び出し、五合入りの椰子盃をさした。
この時に出ていた料理は、
かるも川という三升入りの緑の大皿鉢に生姜酢を溜め、アマノリ、但馬海苔を打ち振り、ヒジモ、葱、大根、人参、ゴボウなどを散らしたもの。
酢鯛も出た。
神村は置塩家老・福岡助九郎とともに猿楽立会を始めた。
片足を上げて手を振り足を振り、猿の顔真似でにらみ合い、口を開け扇を持って入れ違い、顔をしかめ首をねじらかす二人の面白いこと面白いこと!
料理の方は、酢イカ、柏の黒和え、玉子のふわふわ、
御挽き茶(抹茶)、お菓子(有平糖=ポルトガルから伝わったキャンディー)、柏など。
暇乞いにあたって福岡は、口上を述べ、ご馳走のお礼として3mほどの縄を使った富引(福引)を持ってきて、屏風の陰に隠れて袋を握った。
そして、無礼講の御免として、屋形殿を始め上下分ちなく、無刀にて縄を引き、屋形殿はエビラ、才殿は碁盤、神村は叩き鉦、
湯浅将監は下僕「毛八」、松田将監は箸箱、黒川道伯は床枕、橋庄蔵は腰元「たん」、猿楽師は猫、宮森道林は笛を引き当てた。
何と面白いことだろうか!
やがて上下ともくたびれ果て、宴はお開きとなった。
この乱酒で両家の家臣団12人が呑んだ酒は、合計6斗6升。
山田助九郎は5升、福岡十太夫は7升、黒川道伯は8升、神村は9升呑んでいる。
299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:24:48.38 ID:lDWxsm2t
翌日、屋形殿と才殿は9つ刻にお起きになり、御書院で食事を振舞われた。神村達にも同じ料理を具足の間で振舞われた。
この時のメニューは
・鯛のなます。かまぼことアワビ入りのイモマキ汁。赤貝の澄まし物。粟飯。
・ドジョウ汁、焼き海苔(アマノリツクモ)。御酒1返。
・酢イカ。御酒1返。
・さざれ石という大皿鉢に、大根、人参、干瓢、きくらげ、紫海苔、柚子、サザエ、ニシ貝等の酢の物。
・酒1返。猿の木取焼き。
・引き茶。御干菓子。(ただし、才殿には雀の焼き鳥)
であった。
これで才殿はお暇を乞われ、溝居へお帰りになられた。
なお、才殿からは鶴1羽、延命酒5升、鯉1コン、タイ1枚、勝男10節。神村からは鴨2羽、勝男10節がお礼として届けられた。
なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。
313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 11:35:31.20 ID:xTjnP8DB
長楽寺永禄日記より、賢甫義哲(住持)の食事この日記は永禄八年分しか残ってないので、一年を通した食事の内容に相当します
主食
麺(饂飩・碁子麺・38回)・餅(焼餅・善哉・76回)・飯(麦飯・湯漬・焼飯・雑炊・茶漬・小豆飯・揚花・芋粥・割粥・挽粥・276回)・饅頭(20回)・茶菓子(38回)・その他(打麦・雲門など)
食材
米(餅米を含む自家製)・小麦・大麦・大豆・大角豆・山芋・里芋
蕪・茄子(自家製)・葱・韮・大根(自家製)・ウド・榎茸・松茸・筍・鶯菜・東坡
瓜(自家製)・梨・柚(自家製)・栗・柿・蜜柑(自家製)・杏・桃
豆腐・海苔・麩・串柿・昆布・干松茸・茶(自家製)・煎餅・菓子・宇治茶
副食についての記述は少ない(61回)ので、実際にはさらに沢山の食材が使われていたと思われる
寺領中には田や茶園や果樹園があり、また立野としていた山野まで備えているため山菜は豊富に供給出来た
不足していたのは昆布や干松茸のような加工品で、これは遠隔地と取引している土豪から貰っていたようだ
ちなみにここは禅寺なので、魚類肉類は皆無・・・ではなく元旦には食している
麺・蛸煮・田楽・曳干(魚の干物)・雑煮 等を肴に年始の客とともに八日間にわたって酒を飲んでいた
酒と雑煮は特に、大工や寺民や鍛冶・草刈りに至るまで広く振る舞われたようだ
なお料理の味付けはほぼ味噌である
314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 13:21:21.06 ID:balV8J82
禅寺だけど韮はおkなん?315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/07(金) 14:44:25.43 ID:KkgO+KmH
魚類肉類すら食してるんだからおkなんだろうねえ323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 16:34:08.37 ID:nin/vNx8
>>314-315それどころか酒まで飲んでるじゃないかw
コメント一覧
あー、うまそうだなくそー。
書いてる人が自分に酔ってるなーって感じの
気持ち悪さがする物が多い
というオチだと思うんだけど
オチに至るまで長くない?
ご馳走の場合だけど今とあまり献立が変わってないんだと思った。
豚肉、牛肉、揚げ物、うどんやそばが無いかな?
冷蔵庫や保冷トラックが無い時代に魚介類の種類が多いのは驚き。
かなり贅沢な食事なんだと思う。
今の旅館などで出てくる食事と変わらない品揃え。
地方とはいえ権力者の食膳だからね。
当時としては食材もその輸送・保存も調理も、
とんでもなく手のかかったものだったんだろう。
今でも蕎麦の『抜き』ってのがある。
俺の高校時代の同級生で歴史にめちゃくちゃ詳しい秀才も
そんな感じだったなー。今で言うちょうど「意識高い系」で。
花見同窓会で再会したとき、当時の担任に酒を強制されて
拒否し「そうか、おまえは父親がアル中で死んだから酒が
嫌いなんだな。だけどおまえは人に好かれるタイプじゃ
ないんだし、飲めたほうが絶対いいぞ」って言われてた。
酒の強制は嫌いだけど、その担任、俺は大好き。
般若湯だよ
という言い訳
料理も多彩だけどお膳や器が美しいね。