漢字もやまと言葉も、理の無いもの などありません。
コピペ投稿者:名無しさん
投稿者ID:Ftgc5Rxp
コピペ投稿日時:2016/07/25 01:15
コピペ投稿日時:2016/07/25 01:15
393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 22:39:19 ID:s19tcVXa
>>383 国風で思い出した、ちょっとトリビア(?)近衛信尹は、秀吉に関白の位を奪われたり、奔放な行動から薩摩に配流になったりと、
信長や謙信と親交を結んだ父・前久と違い、政治的才能は無かったが、
本阿弥光悦らと並んで「寛永の三筆」と呼ばれ、一流の教養人として知られた。
ある日、信尹に和歌を習っていた武士が、質問した。
「賢人を訓読みで『かしこきひと』というのは分かります。しかし、なぜ聖人を訓読みで
『ひじり』というのですか?」
信尹は答えた。
「聖人は、是 『非』 を 『知り』 尽くしているからです。漢字もやまと言葉も、理の無いもの
などありません。
例えば、東は日が昇るので『日頭(ひがしら)』から、南は全ての者から日が見えるので
『皆見(みなみ)』から、西は『いにしえ』、日が落ち過去のものになる、というところから、
北は日差しを待ちわびた所に『来たる』という意味。
そして、昼は『干る(ひる)』、日照りで乾くという意味、夜は『寄る』、日光の無い心細さで
集まるという意味なのです。」
しょせん逸話なんで真偽は分かりませんが、我々がいつも使っている言葉にも
変化を重ねた長い歴史がある、というお話。
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