1 :◆S.PtdgMO6E:2016/12/29(木)00:00:16 ID:bTA(主) ×
さて、今回の打線は「親日国」ンゴ。
定義としては「日本に対して好印象を持っている人が多い国」やで。
エピソード重視で書くんで、統計やデータと食い違うこともあるかもしれんが、
もし「こっちのほうが親日やん!」という国があったら教えてクレメンス。
1(二) フィンランド
2(遊) ポーランド
3(中) 台湾
4(捕) パラオ
5(右) トルコ
6(一) インド
7(左) モンゴル
8(三) パキスタン・バングラデシュ
9(投) スリランカ
先発 ミャンマー、タイ、インドネシア、
中継ぎ アルゼンチン、ペルー、ブラジル
抑え イラク、イラン
2 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:01:16 ID:bTA(主) ×
1(二) フィンランド親日になった理由:【日露戦争】【新渡戸裁定】【対米戦争】
サンタクロースとムーミンの国で、日本ではあまり知名度のない国である。
スカンジナビア半島の右半分に位置する小国で、歴史的には第一次世界大戦後にロシアから独立した経緯がある。
【日露戦争】
さて、この国が親日である理由の一番は「日露戦争」である。
20世紀の初頭に日本がロシアに勝利したニュースは、ロシアに苦しめられていた各国からの喝采を得た。
トーゴーの名前の付いた通路は今も残っており、
後の冬戦争や継続戦争において、日露戦争の結果が彼らをどれだけ励ましたか計り知れない。
ただし有名な「東郷ビール」は、実はこれは「世界提督シリーズ」の一部であり、
ネルソンやロジェストヴェンスキーもいるらしい。
東郷が今も特別尊敬されているというわけではない。
スオミ(フィンランド人)と話すときは注意されたし。
【新渡戸裁定】
旧5000円札で有名な新渡戸稲造は、実は初代国際連盟事務次長をしていたのを知っている人は少ない。
1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として、
オーランドのフィンランドへの帰属を認め、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めた。
これがいわゆる「新渡戸裁定」である。
これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、
1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立した。
この件はフィンランドの教科書にも載っており、現地では新渡戸稲造の名は有名である。
【対米戦争】
フィンランドはソヴィエトから酷い目に遭った歴史が長い。
アメリカに徹底的に痛めつけられた日本に対してある種の共同意識がある。
「俺たちもロシアからひどい目に遭ったが君たちもアメリカから酷い目にあっただろう」という感じに。
ちなみに彼らが経験した「冬戦争」と「継続戦争」はロシアからの侵略をあの手この手で防いだ偉業であり、
フィンランド近代史における最大の誇りである。
HOI2の歴史イベントで発生する「かかってこい!相手になってやる!」は最高にカッコイイ燃えイベントなので、
是非とも下記を一読いただきたい。
http://dic.nicovideo.jp/a/かかってこい!相手になってやる!
7 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:02:22 ID:bTA(主) ×
2(遊) ポーランド 親日になった理由:【日露戦争】【ポーランド孤児救済】【杉浦千畝】
【日露戦争】
これもフィンランドと同じ経緯だが、彼らもロシア革命の前後に独立を果たした国家である。
詳細はほとんど同じなので割愛。
【ポーランド孤児救済】
さて、独立を果たしたポーランドであったが、ロシアはいまだ革命による混乱が続いていた。
この革命から逃れるために東に逃れた難民、そして独立のために戦った政治犯などが、
なんと10万人以上も極東地域(シベリア)にいた。
折悪く1920年にはポーランドとロシアの間で戦争が起こり、シベリア鉄道も使えない。
飢餓と疫病で苦しむ彼らは、「せめて子供だけでも生きて祖国に送り届けたい」と各国への支援を要請した。
ロシアとの紛争を避けたい欧州各国は、ことごとくこの支援要請を断ってしまう。
そこに手を差し伸べたのが日本であった。
独立後間もないポーランドとは外交官の交換すらしていない状況で、未承認国家も同然であったが、
なんと日本は要請のわずか17日後にシベリア孤児の救済事業を行うと決定した。
このときの日本の首相が、かの平民宰相原敬である。彼は本当に偉大な宰相であった。
尼港事件(にこうじけん) 、すなわちロシア共和国で日本人などが虐殺された事件によって対露感情が悪化していた事が原因だとされているが、
我々の先祖はこういう時に人道支援を行う国だったのだと思うのである。
日本は800人近いこの孤児たちを温かく受け入れ、手厚くもてなした。
孤児たちはひどい栄養失調状態であり、チフスなどの伝染病にも罹患していた。
このチフスの治療に当たって、日本人看護婦が一人亡くなっている。
この孤児たちの来日にあたっては、「習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、
ポーランド人の付添人をつけのがよい」ということから、日赤は孤児10名に1人の割合で、
合計65人のポーランド人の大人を一緒に日本に招くという手厚い配慮をした。
横浜港から祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、
乗船することを泣いて嫌がった子もいたという。
以上の経緯からポーランドではこのときに日本人がポーランドの孤児を助けてくれた事を恩義に感じてくれているわけである。
8 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:02:35 ID:bTA(主) ×
さて、実はこの話には続きがある。ポーランドは1995年の阪神・淡路大震災で親を失った孤児たちをポーランドに招いた。
このとき日本大使館に招かれた20数名孤児たちは、8人の老人と出会う。
全員が80歳以上の高齢であり、付き添いなしでは歩けないほどの老婆もいたという。
日本大使館でこの老婆が涙を流しながら在ポーランド日本大使に言った言葉を紹介しよう。
「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。
そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。
しかしもうそれは叶えられません。
だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、
這ってでも伺いたいと思いました。
なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞いたからです。
今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、
もう思い残すことはありません。」
この老人たちこそが、この元ポーランド孤児たちであった。
【杉浦千畝】
これも映画化された有名な話である。
第二次世界大戦中の1940年。
東欧のリトアニアで一人の日本人領事代行が、独断でユダヤ人に対してパスポートを発給した。
日本はドイツとの関係悪化を恐れてこれを認めなかったとも、
実はユダヤを利用するためにわざと見逃したともいわれているが、
これは結果的に多くのユダヤ系のポーランド人やリトアニア人を救った。
東洋のシンドラーともいわれるこの人物こそが、杉浦千畝である。
このエピソードも現地では有名であり、世界的にも知られている。
10 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:03:01 ID:bTA(主) ×
3(中) 台湾 親日になった理由:【日本による支配時代】【戦後日本の経済発展と文化】【台湾921大地震地震への援助】
【日本による支配時代】
台湾である。
韓国と同じく日本の支配下にあったにも関わらず、台湾の親日度はすさまじい。
その代表ともいえるのが「李登輝」という人物である。
彼は戦前は日本の大学に通い、日本人として学徒出陣により出征した。
今でも「22歳までは日本人だった」「難しい事は日本語で考える」と公言している。
なんと来日時には男塾のコスプレをして、日本と台湾を驚かせた。※あとで本国で怒られたらしいが……
彼らの世代は台湾では「多桑(トオサン=父さん)世代」と呼ばれる。
日本支配時代に少年時代を送り、厳格な教育を施された彼らは若者に煙たがられる反面、やはり尊敬される存在であったという。
これを描いた映画が「多桑 父さん」である。
彼らは一様に「昔日本人がいたときはもっと~~だった」と昔を懐かしみ、
日本人による施政が正しかったと若者に言い続けていたという。
彼らは清国に見捨てられたも同然の存在であり、アヘンと疫病に塗れた化外の民とされていた。
日清戦争後に日本が台湾を統治した際、日本は徹底的にアヘンと疫病の対策を行い、そして教育とインフラ整備を行った。
前述の新渡戸稲造や、烏山頭ダムを造った八田與一は現地でも知名度が高く、今も感謝され続けているという。
【戦後日本の経済発展と文化】
台湾には「哈日族(ハーリージュー)」と呼ばれる日本文化を愛する人たちがたくさんいる。
漫画の海外版には多くの場合英語版が作られるが、次いで多いのが台湾版である。
日本文化を好んでいる人たちの多くは若者であり、高齢である日本統治世代というわけではない。
日本語を訳してくれるように祖父母にねだる子供たちと、日本統治世代をつないだのは日本の漫画であったのかもしれない。
【台湾921大地震地震への援助】
1999年9月21日。台湾で死傷者12000人を超える大地震が発生した。
なんとこの日の夜のうちに日本の国際緊急援助隊が最初に台湾入りし、145人もの緊急救助隊が災害現場に急行した。
1995年の阪神淡路大震災の経験を持つ日本は適切な救助と救援、そして援助を行い、現地から感謝された。
そしてこの話にも続きがある。
2011年、日本で東日本大震災が発生した際、台湾は48億5374万台湾ドル(約141億円)もの巨額の義援金を提供した。
これは先進国を含めても世界最大の金額であり、日本はいくら感謝してもしきれないと思う。
ただこの話には胸糞悪い続きと、民間努力による名誉回復の話があるが、それは各位「謝謝台湾計画」を見ていただきたい。
12 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:03:38 ID:bTA(主) ×
4(捕) パラオ親日になった理由:【日本による支配時代】【KBブリッジの修復】
【日本による支配時代】
2万人ほどの島国であるが、まず間違いなく世界一の親日国である。
台湾と同様に日本の支配下にあったが、やはりインフラと教育を充実させたことで日本への感謝を今も持ち続けてくれている国である。
詳細は台湾と被るので割愛するが、スペイン、ドイツにかなりひどい搾取を受け続けたこの国は、
日本統治下でそれまでと比べて飛躍的に発展した。
パラオは日米戦争の戦場となり、日本軍は一万人以上の犠牲をだしたものの、現地民間人には一人の犠牲も出さなかった。
下記はかの大盛堂書店の創始者で、かつ「不死身」と呼ばれた船坂弘の書籍からの引用エピソードである。
もうすぐこの島が戦場になると現地人は避難疎開を指示される中、
若者たちが「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言した。
しかし隊長は「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂し、
彼らは今までの関係が見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。
彼らはその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。
パラオの国定教科書全462ページの内36ページが日本統治時代のことが記載されており、
章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルが付けられているという。
またパラオには日本文化の影響が見られる。
現代パラオ語には「daijobu(大丈夫)」、「okyaku(お客)」、「denki(電気)」、
「senkyo(選挙)」など日本語からの借用語が多数含まれている。
また、パラオ料理は日本料理の影響を受けている
【KBブリッジの修復】
パラオは島国であり、島と島を結ぶ橋の作成を悲願としていた。
そこで日本企業と韓国企業の入札をさせた結果、
韓国企業は鹿島建設の半額の入札価格を提示し落札した。
1977年に韓国によって作られた橋は、きわめて粗悪なものであり、わずか20年足らずで崩落してしまった。
電気、水道、電話などのライフラインが通っていたため首都機能が麻痺し、
クニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令した。
これは「暗黒の9月事件(Black September)」とも呼ばれている。
このとき様々な支援を行い、最終的に新しい橋を無償で再建したのが日本である。
「日本・パラオ友好の橋」(Japan-Palau Friendship Bridge)であり、通称で「日本パラオ友好橋」ともいわれる。
さて、この国の親日度を表すエピソードをいくつか紹介しよう。
まず彼らは日本人の名前を子供に付けるケースが多いという。
子供にトーゴーやノギと名付けたフィンランド人のような話だが、
かなりの確率で苗字か名前に日本人名が入っているケースが多いという。
代表的な人物は「クニオ・ナカムラ」元大統領なのだが、彼は日系人なのでちょっと事情が違うかな……
パラオが独立したのは1994年だが、次の年の独立一周年記念式典があった。
世界各国が祝電を打つなか、日本からの祝電はついに聞かれなかった。
このとき日本は社会党の村山政権であり、台湾が出席する式典には参加できないし認めないとして無視したのだという。
これに対してナカムラ大統領は大きく落胆したという。
なお、パラオ独立10周年記念日には、小泉純一郎が日本国首相としてちゃんと祝電を送ったという。
アジア諸国への配慮って、こういう事だと思うんだよなぁ……
国旗が日本の日の丸に似ていることについては諸説あるようだが、現地でも「日の丸を参考にした」と考えている人も少なからずいるようである。
13 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:04:07 ID:bTA(主) ×
5(右) トルコ親日になった理由:【明治維新】【エルトゥールル号事件】【日露戦争】
【明治維新】
さて、アジアで最初に議会を開いた国はどこか?答えられるだろうか?
日本、と言いたいところだが、事実は違う。
実は日本よりも先に議会を開いたのがこのトルコであった。
1876年にはオスマン帝国憲法が制定されるなど近代化が試みられた。
しかしトルコは露土戦争の敗北を口実に憲法を停止し、下院を閉鎖した。
その50年近く後、建国の父ケマル・アタチュルク(ムスタファ・ケマル)は新憲法を制定し、近代化を図った。
このとき参考にしたと言われるのが日本の明治維新の「富国強兵」だそうだ。
アジア人であっても近代化ができる!という実績が、彼をどれほど励ましたことだろうか。
【日露戦争】
ポーランド、フィンランドと同じくロシアからの圧迫に苦しんでいたトルコは、
日露戦争で日本が勝利したことをまるで自国の事のように喜んだ。
11回にも及ぶ露土戦争によってロシアに深く傷つけられていたトルコは、この勝利に勇気づけられたという。
【エルトゥールル号事件】
「海難1890」という映画が2015年に公開された。
これはトルコと日本の合作映画であり、なんと日本の首相とトルコのエルドアン大統領がともにイスタンブールでこの映画を鑑賞したという。
さて事件は1890年、トルコ軍艦の「エルトゥールル号」が和歌山県沖で座礁し、沈没してしまった事件から始まる。
海岸に打ち上げられたトルコ人たちを、現地である大島村の村人が救助と生存者の介抱に当たった。
これは当たり前の話のように思えるが、当時の大島村はこの時、
台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、
住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めたという。
明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。
各新聞はこの事件を衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。
なお、この時トルコに生存者を運んだ日本の船団の中に、「坂の上の雲」で有名になった秋山真之も登場していたという。
この辺りの話は江川達也の「日露戦争物語」に詳しく載っている。
そしてこの時中心となって動いた「山田寅次郎」はトルコでは非常に知名度が高いという。
そしてこの話にも続きがある。
1985年のイラン・イラク戦争において、サダムフセインによる航空機無差別攻撃宣言がなされた際、
日本外務省は何一つ有効な手を打つことができなかった。
地政的に手の打ちようがなかったのは事実だが、
他国のように軍の航空機を向かわせて救出するという選択肢を塞がれていたことが原因である。
この時、在イラン邦人のために救援機を出したのがトルコであった。
この救援機は本来、トルコ人のために用意されたものであったが、本来1機であったものを2機に増やし、
なんと自国民よりも優先して日本人を乗せたという。※トルコ人は無事陸路で逃げ出せた。
この時のトルコのビルレル駐在特命全権大使を引用しよう。
「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。
トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。
ご恩返しをさせていただきましょうとも」
なお、戦中に破棄された両国の国交はサンフランシスコ平和条約によって回復した。
この際トルコは日本に対して賠償金その他の請求を一切行わなかった。
戦後は経済大国へと発展した日本によるトルコへの政府開発援助での支援が積極的に行われており、
特にイスタンブール市内のインフラの整備などに日本の多額の資金と技術が投入されている。
ニュースで知っている人がいると思うが、2015年4月、天皇皇后両陛下が戦没者慰霊のためパラオ共和国に行幸啓された。
パラオは国を挙げて両陛下を歓迎したという。
16 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:04:50 ID:bTA(主) ×
6(一) インド親日になった理由:【日露戦争】【インパール作戦】
【日露戦争】
インドは長い期間、英国の支配下にあった。
英国の「独立させるさせる詐欺」によってさまざまな屈辱を受けたインドは、日露戦争の結果に大きく勇気づけられたという。
【インパール作戦】
マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破った。
スバス・チャンドラボーズやラース・ビハーリー・ボースを支援し、日本軍はインド独立運動を支援した。
自由インド仮政府は大東亜共栄圏を構成する国の一つであり、大東亜会議にも参加した。
これは当たり前のことだが、日本は太平洋戦争においてアジア諸国と戦っていた訳ではない。
彼らを支配する欧米諸国と戦っていたのである。
日本では散々な評価を受けるインパール作戦であるが、実はこれはインドからの要請で行われた作戦である。
チャンドラ・ボースはしつこく国民軍をインパール作戦に参加させようとしたらしいが、
やらなくて正解だったっすね……
1949年、敗戦で落ち込んだ日本を励ますため、インドは上野動物園に二匹の象を贈った。
日本の主権回復後、日本とインドは講和条約に調印し、1952年4月28日、国交を樹立した。
その中でインドは日本に対する賠償をすべて放棄した。
17 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:05:04 ID:bTA(主) ×
7(左) モンゴル親日になった理由:【対中・対韓・対露感情が最悪】【日本からの経済支援】
【対中・対韓・対露感情が最悪】
さて、モンゴルと言えば北はロシア、南は中国の内陸国という、非常に地政学的に危うい国である。
実際に中国の一部であった期間やソヴィエトの一部であった期間が長く、中国とロシアにはいい印象を持っていない人が多い。
その理由を、元の時代に求めることができるだろう。
かつて彼らはユーラシア大陸最強の軍隊を持ち、その領土の過半を手にした経緯がある。
ロシア領土はすべて彼らの支配下にあったし、中国も韓国も同様であろう。
特にロシアにとってはその事実は消し去りたいものであったらしく、
モンゴルでは徹底的に文化の破壊を行い、チンギスハンの栄光を消し去ろうとしていた。
ソヴィエトが崩壊し、ロシアがその支配下から逃れられたとき、彼らは最初に何をしたか?
それは映画を作ることであった。
「マンドハイ」という映画はモンゴルで大ヒットし、彼らは民族としての誇りを取り戻したのである。
彼らにとって中華もロシアも韓国ももとは支配下に置いた地域であり、
決して自らが劣っているとは考えていない誇り高き民族なのである。
そのなかで、アジアでは唯一元軍を撃退した日本の存在は特別なのだ。
二度にわたる来寇を見事に退け、独立を維持した日本は、彼らにとってさげすむべき国ではなく、一目置くべき国なのである。
【日本からの経済支援】
戦前、モンゴルの東に「満州国」という国があった。
これは日本の傀儡国家であるが、モンゴルにとっては隣国であり、非常に重要な国であった。
満州国は五族協和(日朝漢満蒙)を国是とする国家であり、モンゴルからも商売をしやすい国であった。
モンゴルは各種資源が豊富に取れるのであるが、輸送手段がないため、
それらのインフラを有する満州国の存在は非常に重要であった。
満州国崩壊後、モンゴルは石炭を中国に買い叩かれるようになってしまい、
最貧国と言っても差し支えない状態にまでなってしまった。
日本はそのモンゴルを支援した最大の国である。
モンゴル国民は、戦後日本からの援助をよく知っており、日本に感謝している人が多い。
また、モンゴル国民は白米が大好きなのだが、内陸で農業に適さないモンゴルでは水稲栽培は不可能である。
このため米を中国などから購入しなければならないのだが、その中で日本米に対する評価がすさまじい。
実は日本からモンゴルに米を輸出するプロジェクトが始まっており、非常に人気が高いらしいが、値段がネックなのだとか。
せっかくだから日本の倉庫に眠っている古米や古古米を安く売ってあげればいいのになぁと思う。
19 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:05:24 ID:bTA(主) ×
8(三) パキスタン・バングラデシュ親日になった理由:【インドから独立した国】【日本の紡績業と綿花】
【インドから独立した国】
まずこの両国はインドの北部に位置する国であり、古くは西パキスタン・東パキスタンと呼ばれた。
カシミール地方の帰属をめぐってインドと激しく争った国であるが、元はといえば英国統治領であり、
その意味でインドが親日である理由と似通っている。
インドからパキスタンが独立し、パキスタンからバングラデシュが独立した、というように理解されたし。
【日本の紡績業と綿花】
日本ではあまり知られていないパキスタンとバングラデシュだが、
意外なことに日本の高度経済成長に大きく寄与してくれた国である。
インドは英国支配下に、綿花の生産をするだけのモノカルチャー化を強いられ、
国内には米農家と綿花農家しかほとんどないような状態であった。
そして当時の日本は重工業が壊滅しており、軽工業である紡績業を軸とした経済発展を図っていた。
パキスタンは世界最大の綿花供給国であり、日本は経済発展に当たって大量の綿花を必要としており、
ここに両国の利益が一致した。
インドからパキスタンが独立した直後の1950年代、日本とパキスタンと国交を結び、
相互に経済発展のために良好な外交関係を築いた。
日本はその後、自動車産業によって大きく発展したが、
パキスタンはその時刻の綿花によって発展した日本を応援する為に日本車を好んで購入してくれた。
パキスタン・バングラデシュにおいて日本製品は非常に高い信頼を得ており、
車・バイクは日本のものがほとんどであるという。
20 :◆S.PtdgMO6E :2016/12/29(木)00:05:58 ID:bTA(主) ×
9(投) スリランカ日本が絶対に感謝しなければならない理由:【サンフランシスコ講和会議】
【サンフランシスコ講和会議】
さて、この国だけはこの打線の中で毛色が異なる。
スリランカは確かに親日国であるが、
それ以上に我々が知らなければいけない事が一つあるのでそれを紹介させてほしい。
日本はスリランカの初代大統領ジャヤワルダナの事を絶対に忘れてはならない。
まずサンフランシスコ講和会議とは何かというと、第二次世界大戦終結後、
その原因となった日本と世界を講和させるための会議である。
アメリカ主導で行われ、日本はこの会議の中で
セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、下記の演説を行った。
日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。
「戦争は戦争として、終わった。もう過去のことである。
我々は仏教徒である。
やられたらやり返す、憎しみを憎しみで返すだけでは、
いつまでたっても戦争は終わらない。
憎しみで返せば、憎しみが日本側に生まれ、
新たな憎しみの戦いになって戦争が起きる。
戦争は憎しみとして返すのではなく、
優しさ、慈愛で返せば平和になり、
戦争が止んで、元の平和になる。
戦争は過去の歴史である。
もう憎しみは忘れて、慈愛で返していこう。」
この演説は各国の賛同を得、日本が国際社会に復帰できる道筋を作った。
この演説がなければ日本はソヴィエトの主張通り分割統治された可能性もあり、
この演説がその後の日本の運命を決めたと言っても過言ではないだろう。
彼は閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日、更に政界引退後も日本を訪れている。
また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流に尽力した。
1989年、昭和天皇の大喪の礼に本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。
既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として待遇された。
1991年には日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学している。
1996年、死去に際し献眼、角膜提供。「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られた。
1951年のサンフランシスコ講和条約締結後、
世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのはスリランカであった。
コメント一覧
やつろぱりkommってどこか人とズレてるわ
こうですか?
例外はあるが、第二次大戦で日本が統治した国は大体それまでと比較しても発展しているし、
日本に対しても好感情であることが多い
報道なんかで「アジア諸国への配慮」云々とよく言われるけど、多数決で言えばどちらが多いかは一目瞭然
ただ残念ながらこういう事は現代の日本では自ら調べようとしないとなかなかその事実に辿り着けない
真珠湾、南京大虐殺、上野公園全裸花見、慰安婦問題ばかり
取り沙汰されて「日本は酷い国だ!」と叩かれ、あげくに
左巻きとはいえ教育者が修学旅行先の韓国で生徒たちに
男子全裸土下座を強制したりする。日常的に自虐史観を
押し付けられるなかで、こんなふうに「日本は立派なこと
してるじゃん!」と思わせる内容は、大きな救いになるね。
汗臭いkommさんをkommさんというだけで攻撃する人たちは、
国家に希望をもたらすタイプか、国家を貶めるタイプか。
国内でもそうだけど海外では日本人として恥ずかしい行動は出来ないなと思う
来年の成人式あたりでスピーチしてきてくれ
良い事は良い事として学ぶべきだと思う
学校じゃ習わない歴史や事柄を知れるのは嬉しい
ありがとう。
全部読んだ。
知らなかったことが沢山。
神保猛さん、後半からじゃなくて途中に織り込んでくるスタイルに変わった!?