落語「秋葉っ原」の舞台を歩く

コピペ投稿者:名無しさん  投稿者ID:SBxPvJjv
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三遊亭円生の噺、「秋葉っ原」(あきばっぱら)
 

 江戸の”夜鷹(よたか)”が京では”辻君(つじぎみ)”、大坂に行くと”惣嫁(そうか)”と名が変わる話でございます。暗い所から「チョイと、お前さん、遊んでいかない」と声を掛ける女子(おなご)衆です。

 古くから「吉田の森に夜鷹という鳥住む。両の翼二十四枚あり・・・」等と言われ、本所吉田町に巣窟があって、夜になると出かけるのが、両国の薬研堀、神田の筋違い橋、駿河台から護持院が原まで羽を広げていた。料金は二十四文。山の手辺りでは、四ツ谷の鮫が橋が巣窟で、番町、四ツ谷堀端、牛込桜ノ馬場、愛宕下に出稼ぎに出ていた。
 年に関係なく振り袖で白粉(おしろい)を塗って若く見せ、チラッと見ると二十二・三、チョイと見ると三十二・三、近づいてみると四十二・三、よくよく見ると五十二・三、年を聞くと六十過ぎだった。
 ムシロ一つで商売をし、大部分が病気を持っていた。安かろう、悪かろう、ひどかろう、の見本。川柳にも
 『吉田町女房かせぐを鼻にかけ』
 『鷹の名にお花お千代はきついこと』

 二人の男が話をしている。友達が言うには、
 「近頃秋葉っ原に四十デコボコで、肌はもち肌で白く小太りで好き者なんだ。あまり好き過ぎて三度に一度は亭主も背中を向けて寝てしまう。それが嫌さで、夜な夜な出掛けて道楽で商売している。ひとの女房だから病気は持っていないし、銭もねだらない。夜鷹の掘り出し物で、掃き溜めに鶴だ。俺は今夜は行けないから、1人で行ってこい。秋葉っ原の秋葉様の裏の材木置き場に、豆絞りの手ぬぐいを口にくわえている女だから直ぐ分かる。」
 そこで、金の持ち合わせはあるし、据え膳食わぬは男の恥、と出掛けてみた。

 『材木に巣をかけて待つ女郎蜘蛛』

 豆絞りの女が手を引いた。江戸のその頃は三ヶ月の夜でも真っ暗、材木の中に入ると何も見えない。
 町奉行所ではその噂を聞きつけて、張り込みに入っていた。いざ、と言うとき「御用だ!」と
前方だけ照らす強盗提灯(がんどうちょうちん)を突きつけた。ビックリした二人。
 「たはーッ、ご勘弁を・・・」
 「ならぬ!風紀を乱す不届き者め、神妙に致せ」
 「いえ、ご勘弁を。これは、女房でございます」
 「たわけたことを抜かすな。夫婦ならなぜ、この様な場所でいたす?」
 「へえ、いま照らされて、はじめて女房と分かりました」。


  台東区松が谷三丁目10-7の秋葉神社。当初の名は鎮火社といった。明治2年(1869)暮れの大火を受け、明治天皇の勅命により翌明治3年(1870)に現在のJR秋葉原駅構内(東京都千代田区神田花岡町)の地に、火の神・火産霊大神(ほむすびのみこと)、水の神・水波能売神(みずはのめのみこと)、土の神・埴山毘売神(はにやまひめのみこと)の三柱を皇居内紅葉山(もみじやま)より祀神として勧請したのが始まりである。

 江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」、「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除地(空地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。

 鎮火社はいつしか秋葉社となり、明治21年(1888)日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が現在の上野駅から秋葉原駅まで延長され、秋葉の原の土地が払い下げられたのに伴って現在地の台東区松が谷に移転した。その後昭和5年(1930)に秋葉神社と改名された。 跡地の駅を、下町訛りを知らない(敢えて無視したとも考えられる)官吏たちが「あきはばら」と名付けたことが、今日世界的に知られる電気街「秋葉原」の名の由来です。
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