368 :例えばこんな日本びいき 32:2012/03/03(土) 21:29:30.49 ID:p9IrX60I
ここ数日、インドネシア独立について書いているうちに、 結構な文書量になってしまいました。3回くらいに分けて投稿します。
黄色い人とムルデカ ①
ムルデカとはインドネシア語で独立のことです。
大航海時代より長きにわたりオランダの植民地とされたインドネシア。
何世代にもわたる苦難の生活の中、現地の民衆には、ジョヨボヨ王の民族叙事詩の
一説からとられた「予言」が語られていました。
「第5の時代、北方から『黄色い人』たちがやってきて、『白い人』を追い払う。
『黄色い人』もインドネシアを支配するが、トウモロコシの花の咲く前に去っていく」
これが、本当に予言なのか、あるいは民衆の願望から生まれた伝承なのかは
今となっては分りません。ただ言えることは、インドネシアの人々が、日露戦争に
勝利した日本に、「黄色い人」の幻想を託したこと、そして、日本軍もこの伝説を
利用しインドネシアの民衆の支持を得たことです。
それにしても、伝説の後半部分「トウモロコシの花が咲く前に去っていく」
つまりは、「黄色い人の支配期間が短期で終わる」という部分まで予言が実現するとは
日本軍の関係者は、果たして考えていたのでしょうか?
369 :例えばこんな日本びいき 32:2012/03/03(土) 21:30:28.22 ID:p9IrX60I
1942年2月から、日本の第16軍(陸軍)がスマトラ・ジャワを侵攻。 破竹の快進撃で、オランダ軍を僅か9日間で降伏させ、360年に及んだ
オランダの植民地支配は終わりを告げます。
日本軍は、インドネシアの独立を約束。独立運動家のスカルノやハッタを解放。
食料の調達、資源確保などに動く一方、現地の人々の言語を統一し、教育制度を設け、
農業の改良を行うなどの改革を施行。さらに、イスラム教の活動を認め、
新聞を刊行するなど、民族意識を鼓舞し、インドネシア人の社会構築、政治参加を
促す政策を矢継ぎ早に行います。
そして何よりも、オランダ軍との再戦に備え、「郷土防衛義勇軍(PETA)」を組織。
現地の人々に兵士としての訓練をほどこしました。
44年には、インドネシア国旗と国歌を解禁。翌45年3月には、独立準備委員会が発足。
しかし、そこまででした。
45年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に降伏。
直後の8月17日、スカルノとハッタは、慌しく独立を宣言。
独立宣言書にしるされた日付は、「17805」
インドネシアには、日付を、日、月、年の順に記す風習があります。
178は、8月17日のこと、05とは日本の皇紀2605年のことです。
インドネシア独立を描いた映画「ムルデカ17809」のタイトルはここからとられました。
「ムルデカ」とは、独立のことです。
ttp://www.geocities.jp/indo_ka/museum/mpnp/index.html
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB17805
370 :例えばこんな日本びいき 32:2012/03/03(土) 21:32:00.34 ID:p9IrX60I
敗戦後、インドネシアでの日本人の状況は一変しました。 考えてもみてください。
日本人の多くは、「この戦争には必ず勝つ」といっていたのです。だからこそ
現地のインドネシア人も日本に協力しました。しかも、この時点でインドネシアでは
日本軍が戦いに負けたわけではありません。
彼らの目からすれば、日本人は大口を叩いておきながら、敵が本気になった途端、
戦わずに降伏した臆病者のように見えたはずです。大いに幻滅したことでしょう。
インドネシア独立派は、各地に非正規の武装組織を作ります。
そして日本軍に武器を引き渡すように要求します。オランダ軍が戻ってきたとき、
ゲリラ戦を仕掛けるつもりだったのです。
ところが、それは日本側に拒否されました。
意外に知られていない戦争の基本ルールがあります。
降伏した軍は、勝者の側に、自分たちの武器に関する権限を全て
引き渡さなくてはなりません。(考えてみれば、勝った側が、負けた側に
武装解除や武器の引渡しなどを要求するのは、当然のことです)
勝者であるオランダ側は、インドネシア独立勢力に武器がわたることを恐れ、
敗者である日本軍に、現地人への武器の引渡しを禁止。
ルールに厳格な日本軍は、それを遵守したのです。
384 :例えばこんな日本びいき 33:2012/03/04(日) 08:36:45.56 ID:exkDhSOq
黄色い人とムルデカ ② もし、あなたが、監禁され、銃で打たれ、瀕死の重傷を負った場合。
死の直前、自分に危害を加えた人たちの幸せを祈れますか?
……スイマセン。私には、とてもできそうにありません。
武器が欲しいインドネシア独立各派。戦争のルールを破れない日本側。
二者の間で軋轢が生まれます。独立各派は、略奪という強硬手段に出るのです。
武器庫が襲われ、小部隊が攻撃され、その都度、日本人が殺されたり、
人質として監禁されたりしました。
治安は悪化。インドネシア独立派も数多くの人命が失われました。
最大の騒乱がスマラン事件です。
インドネシア独立派が、ジャワ中部のスマランにおいて軍人・民間人を問わず、
日本人をはじめとする外国人2000名を拉致・拘束しブル刑務所に監禁したのです。
拘束を免れた日本人が、日本軍駐屯地に駆け込んだことで、状況を知った日本軍は
本格的に動かざるをえなくなります。
「日本軍がくる」との一報に驚いた独立派は、収監していた一部の日本人を
機関銃、竹やり、手榴弾などで殺害。
反撃も逃亡もできない中、150名ほどが虐殺されました。
紛れもない惨劇。その中で、涙を誘う英雄的な行為が生まれます。
385 :例えばこんな日本びいき 33:2012/03/04(日) 08:39:33.07 ID:exkDhSOq
牢獄で銃撃され、瀕死の重傷を負った一人が、阿部頌二さんでした。 人の死体が折り重なり、うめき声が聞こえる血の海の中、彼は、自らの鮮血で
壁に日本語と現地の言葉で文字を書き記し、そして、その直後に亡くなりました。
「バハギア ムルデカ 祝福独立 」「インドネシア独立 喜び死す」 「日本人万歳 大君」
阿部さんは、当時27歳。
山形の温泉旅館の生まれです。早稲田大学を卒業し、陸軍に所属。その後、除隊。
このときは森永乳業の社員としてジャワで勤務していました。
社員としての傍ら、軍からの費用で、現地に教育施設や・病院・モスクを建設。
「バハキヤ・インドネシア・ムルデカ」(インドネシア独立に栄光あれ)とは、
阿部さんが、建設に従事していた人たちとともに朝夕唱和していた言葉でした。
騒乱が収束後、新政府インドネシア共和国、カスマン国防省・サルトノ氏が、
斉藤ジャワ派遣軍政務官と、ブル刑務所を訪れ、この「血の遺書」を発見。
感動したカスマン国防省は、これをスカルノ大統領に伝え、大統領もまた強く
感銘を受けるのです。
やがて、インドネシア国民にこの話が広く伝わると、日本人に対する争乱は
収まっていきました。
おそらくは、彼の死を通じて、独立の意義や価値について、改めて
考え直したインドネシア人も多かったと思います。
ttp://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp30.html
ttp://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/172231/
392 :例えばこんな日本びいき 34:2012/03/04(日) 14:15:23.23 ID:exkDhSOq
荒れ気味なので早めに投下。 黄色い人とムルデカ ③
武器引渡しの騒乱と前後して、「不思議なこと」が起こります。
オランダに命じられ、遺棄したはずの日本軍の武器を、「偶然にも」
現地のインドネシア人が見つけて、それが独立派のものとなる。
日本の軍人が紛失してしまった武器庫の鍵が、「偶然にも」
独立派のインドネシアの人の家の庭で見つかる。
治安維持のために現地の警察に手渡された武器が、手違いから、
「偶然にも」独立派に手渡される。
そういう類の「偶然」が幾度も重なるのです。
1947年5月、日本軍と日本人はインドネシアから引き上げます。
9月より、オランダ軍とイギリス軍が、スラバヤに上陸。
そこで、従順であるはずのインドネシア人の頑強な抵抗にあいます。
スラバヤの占領に3ヶ月以上を費やし、大きな犠牲を払ったイギリスは、
オランダとの共闘を断念し撤退。
後に引けないオランダは、戦車・飛行機・重機関銃などの近代兵器で武装した兵士
10万人を改めて派遣。戦いに本腰を入れます。
対するインドネシアは、兵士こそ200万人を数えましたが、まともな武器は
日本軍が残した旧式の小銃4万がほど。残りは刀剣、竹やり、毒矢などしかなく、
軍備に比較にならない差がありました。
言うまでもなく、敗戦を重ねるインドネシア軍。
苦しい戦いの最前線には、常に、そこにいるはずのない日本兵の姿がありました。
394 :例えばこんな日本びいき 34:2012/03/04(日) 14:16:41.81 ID:exkDhSOq
それは、いわゆる「現地逃亡日本兵」「帰れなかった日本兵」です。 禁じられていたにもかかわらず、彼らは現地に残りました。
理由は様々です。
インドネシア人と「ともに生き、ともに死ぬ」と誓った日本兵がいました。
PETAの教官として、現地の教え子を見捨てられなかった日本兵がいました。
奇麗な理由で居残った人だけではありません。
日本に帰れば軍事裁判にかけられると、恐れを抱いていた日本兵がいました。
負けてしまった日本の姿を見たくないと残った日本兵いました。
おそらくは、日本の敗戦に自暴自棄になった日本兵も多かったはずです。
動機の清濁をこえて、彼らの目的は一つ。
「バハキア・インドネシア・ムルデカ」「インドネシア独立」です。
この方々の人数は、資料によって大きな差があります。
作られた名簿によると、確実といえるのは、903名が残り、戦死が246名したこと。
ただ、実際は2000人から3000人が現地に残り、1000名ほどが戦死したようです。
ttp://www.tamanegiya.com/inndonesiadokuritutonihonnhei21.2.23.html
長きにわたる苦闘。その殆どが敗戦。撤退に次ぐ撤退。
多くの非武装のインドネシア人が戦いの巻き添えで亡くなりました。
インドネシア共和国はたびたび崩壊の寸前まで追い詰められます。
395 :例えばこんな日本びいき 34:2012/03/04(日) 14:17:29.57 ID:exkDhSOq
しかし、彼らの粘り強い抵抗は、ついに国際世論を動かしました。 国連がインドネシア独立を支持。
さらにこの時期、アメリカは大戦で荒廃したヨーロッパへの援助であった
マーシャルプランを停止。他の植民地も失われ、オランダに、これ以上
インドネシアで戦闘を続ける経済力がなくなったのです。
その後、曲折はあったものの、様々な外交的努力の結果、
1949年、ハーグ円卓会議にて、インドネシアは正式な独立を果たしたのでした。
現在、インドネシアの人口は二億三千万人を超え世界第四位。
その国民の多くが日本に好感を抱いており、「世界最大の親日国家」とまで
呼ばれています。
ttp://photo.jijisama.org/indonesia.html
ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_indonesia_dokuritsu_sengen.html
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2
コメント一覧
知識自慢乙
不良、ファッション。
喧嘩、ファッション。
……でも喧嘩に強くても拳銃にはかなわない
長すぎて休日にしか読めないんだよ
おまえの都合なんか知るかよ
こういうの学校の授業でやればいいのに。
学校だと中国に酷いことをした〜朝鮮に酷いことをした〜
ってのばっかりの日教組教科書ばかり
No.8629 日本人よありがとう 序文
No.8608 第二次世界大戦後、日本へのアジア各国の評価
もうちょっとよく調べてから書き込めよな
こんな事実無いんだから
全部ネトウヨの妄想
と言うことにしたいんですね。
ある意味幸せそうだな。
皆様にも読んでいただきたいので…
逆に押してない奴は…あっ(察し
2分でネトウヨ連呼を沈めた※13もGJ
記事が良質だとコメ欄も良質の法則だね