678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/12(日) 12:00:15 ID:wdrcrYzi
ある日、京都所司代の板倉勝重が家康の命で大久保忠隣を訪ねた。そのとき忠隣はちょうど将棋をさしていた。
「どのような御用向きかは存じている。命を受けてからではこんなことも
できないだろうから、これを終えてからにしてほしい。」
忠隣の願いを勝重は了承し、対局が終わると所領没収の旨を伝えた。
罪状は徳川家に対する謀叛企てだという。これは本多政信父子との
政治的対立に起因するという。
忠隣失脚は都中に伝わり、ひと騒ぎ起こると噂になった。忠隣は噂を
鎮めるために武具全てを勝重に送り、一族郎党を退去させたので騒ぎ
は収まった。
その後、家康が没すると出家を決意して比叡山などの僧侶を配流先の
近江に呼び寄せた。そのとき忠隣は僧たちに話を聞かせている。
「私はこれまで人に隠さねばならないようなことをしたことはない。11歳
のころから家康公に仕えたが、仕事で他言したことはないし、重要な
仕事をしたときに内心省みて贔屓をしたことはない。わがまま、分け隔て、
悪口などもしなかった。ただ理を通してきたのだ。」
僧たちはこの話を人に伝えるとき、皆涙したという。
やがて政敵の本多正純が失脚した。将軍秀忠はかつて側近として自分を
支えてくれた恩からか、忠隣を復権させようとした。しかし忠隣はこの要請
を固辞し続けた。配流先の井伊直孝が出仕を薦めたとき、忠隣は自分が
出仕しない理由を語った。
「私に罪がなければこのような境遇になるはずがない。仮に申し開きが
あったとしても、家康公亡き今、復権したとあっては家康公の御判断が
間違っていたということになる。そして、それは秀忠様が御父君の間違い
を明らかにすることになってしまう。私は自分の無実の証明にために、
世間が家康公の御処置を疑い、秀忠様がご不幸になるようなことは
避けたいのだ。」
結局、その後も忠隣は復権することなく、75歳の生涯を閉じたのだった。
コメント一覧
正純の方は間違ってないからただの誤字かね
すっきりしたので寝る
_,,..i'"':,
|\`、: i'、
つ .\\`_',..-i スッ
.\|_,..-┘
しなかったことが長寿につながったのでは?
とか言っちゃうと、叩かれるんだろうなあ
自分は良くても子孫や部下の問題もあるので自分ひとりの生活が安泰ならOKと言うことでもない。
まぁOK出しちゃった人も歴史上いるけどね。