動物が人よりも先に死んでしまう理由についたコメント

23  名前::2009/01/02(金) 03:14:04 
これを思い出した。

〔文学を書くということは、必然的に、
言語をある境界にまで押し広げる。
たとえば、言語と、哀しく痛々しい鳴き声とを分かつ境界。
その例は、カフカの『変身』のグレーゴルの苦しい鳴き声。
その境界まで押し広げることで、カフカは動物の代わりに書いた。
この文脈で、なぜ動物を書くのか、その理由を述べて↓〕

――哲学者ジル・ドゥルーズ『アベセデール』A:動物(ニコ動訳)――――

というのもじゃよ、一般的にいわれているのと反対に、
死に方、つまりきちんと死ぬことを知っているのは
動物であって、人間ではないのじゃ。
人間が死ぬ時はな、皮肉にも人間は「畜生のように」
野垂れ死ぬことしかできない。
ここで猫たちに敬意を表しながら戻りたいのじゃが、
わしゃの、この家で何匹もの猫が生きて死んでいくのを
みてきたが、一匹な、
早く死んでしまった小さい猫がおったんじゃよ。
まあ、これは多くの人が見知っていることでもあるが、
動物は死ぬための場所を探すわけじゃ。
つまり死の領土〔縄張り〕というものが存在する。
死の領土の追求というプロセスがある。
死ぬことのできる領土、というものをな。
その子猫はそこらへんの片隅に突っ込もうとして、
そこが自分が死ぬべきところだとおもったのじゃろう。

この意味において、書き手というのはまさに言語を
この境界まで推し進めるもの。
言語を動物性と分かつ境界まで、言語と叫びの境界、
言語と歌の境界まで。
この時、書き手は死にいく動物たちに対して
責任をとっているといえるじゃろう。
死にいく動物たちに対して責任をとる、
つまり死にいく動物たちに応答するということ。

書くということ、それは動物「のため」に書くことではない。
わしゃ自分の猫や犬のためにかくわけじゃない。
しかし、死にいく動物の「代わり」に書くということじゃ。
言語をこの境界まで持っていくのじゃ。
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