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牛の首についたコメント
9
名前:
名無しさん
:
2009/02/01(日) 10:17:22
ID:+8INWSAj
米4
たぶんこれは、それにもっともらしい話を割り当てたもの。
俺が聞いた牛の頸は、こんな話でした。
---
私は某県の職員です。
郷土史の作成のため、ずっと昔に廃村になったA村について調べていました。
A村には「牛祭り」があったそうなのですが、
どんな祭りなのか、皆目見当がつきませんでした。
いちおう戸籍があり、どんな名前の人がいたのかはわかったのですが。
まず、地図を頼りにA村のあったらしい場所に行きました。
そこは「どうしてこんなところに村が」と思うほど痩せた土地でした。
家屋もありましたが、もちろん廃屋で、ほとんど倒壊していました。
荒地の中に墓石が並んでおり、なんとか文字が読めました。
墓ともいえないくらい、みすぼらしい墓で、悲しい気持ちになりました。
戸籍から転写した名簿をもってきていたので、墓の名前と照合していきました。
せっかく来たのだからと、成仏してくださいという思いで、
全員の墓をひとつひとつ回っていきました。
私はそれを、何かしら自分の義務のように感じていました。
次に私は、A村の隣にある村を訪れました。
幸運なことに、といってしまってよいものか、小さな帳面に記録が残っていました。
「あまり読んで気持ちのよいものではない」
役場の人はそう言って見せたがりませんでしたが、
県の事業と言い張ると、しぶしぶ見せてもらえました。
A村は非常に小さな村で、その村人の生活の様子は、
その村(隣村)の人もあまり知るところではありませんでした。
かなり閉鎖的なところだったらしく、
いわゆる被差別集落なのか落人の村なのか、
隣村の人々のあいだでも、蔑視の対象になっていたようです。
そしてたしかに、A村には「牛の頸」という奇妙名前の祭りがありました。
豊穣祈願のために、年に一度、一頭の牛を追い、それを食す祭りとのこと。
ただ、上の事情があってのことでしょう、
その祭りの詳細については書かれていませんでした。
しかし、あるときの恐ろしい事実のみ、参考に記されていました。
明治時代、何年にもわたる飢饉が起こりました。
その村(A村の隣村)にもかなりの死者が出ており、
もちろんその隣村では牛のような家畜を飼育する余裕もありませんでした。
ところが、A村では、飢饉のときも相変わらず、
「牛の頸」がおこなわれていたというのです。
誰かが確かめたわけではありませんが(わざわざ行きたいとも思わなかったでしょう)、
A村の周辺の村々には、そんな噂が流れていました。
その飢饉の最中、A村に一頭の「牛」が逃げ込んできました。
ただの牛ではありませんでした。
牛の頭に、人間の身体が生えているのです。
「牛」は叫びながら助けを求めていました。
みんな何事かと恐ろしく、外に出ていきませんでした。
「牛」は、ある家に飛びこみ、土間の上に倒れました。
家の主人がよくよく見ると、牛の頸をかぶった男だったのです。
男は傷だらけで血を流していましたが、あまりのことに主人は何もできないでいました。
すると、そのすぐ後から、男が数人、続いて家に入ってきました。
男たちは、黙って「牛」を捕まえると、主人のほうをジロリと見ると、
何もいわずに連れていきました。
少し物語風に脚色してしまいましたが、
その帳面に書かれていたのは、それだけでした。
「まさか、牛の頸とは」
役場の人に尋ねました。
「おそらく、そういうことだったのでしょう」
私は、それ以上詮索できませんでした。
県の事務所に帰り、報告書をまとめました。
気づいたのは、そのときでした。
どうして、周りと交流のない村だったら、村人全員の墓があるのはおかしくないか?
隣村の記録は虚偽ではないのか?
「牛の頸」はA村“内部”の祭りなのか?
そもそも「牛の頸」という祭りはあったのか?
「牛」を追っていたのは、本当にA村の人間だったのか?
もちろん、哀れに思った隣村の誰かが最後の墓を建てたのかもしれません。
それでも私は、ある観念を捨てきれないでいるのです。
32
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たぶんこれは、それにもっともらしい話を割り当てたもの。
俺が聞いた牛の頸は、こんな話でした。
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私は某県の職員です。
郷土史の作成のため、ずっと昔に廃村になったA村について調べていました。
A村には「牛祭り」があったそうなのですが、
どんな祭りなのか、皆目見当がつきませんでした。
いちおう戸籍があり、どんな名前の人がいたのかはわかったのですが。
まず、地図を頼りにA村のあったらしい場所に行きました。
そこは「どうしてこんなところに村が」と思うほど痩せた土地でした。
家屋もありましたが、もちろん廃屋で、ほとんど倒壊していました。
荒地の中に墓石が並んでおり、なんとか文字が読めました。
墓ともいえないくらい、みすぼらしい墓で、悲しい気持ちになりました。
戸籍から転写した名簿をもってきていたので、墓の名前と照合していきました。
せっかく来たのだからと、成仏してくださいという思いで、
全員の墓をひとつひとつ回っていきました。
私はそれを、何かしら自分の義務のように感じていました。
次に私は、A村の隣にある村を訪れました。
幸運なことに、といってしまってよいものか、小さな帳面に記録が残っていました。
「あまり読んで気持ちのよいものではない」
役場の人はそう言って見せたがりませんでしたが、
県の事業と言い張ると、しぶしぶ見せてもらえました。
A村は非常に小さな村で、その村人の生活の様子は、
その村(隣村)の人もあまり知るところではありませんでした。
かなり閉鎖的なところだったらしく、
いわゆる被差別集落なのか落人の村なのか、
隣村の人々のあいだでも、蔑視の対象になっていたようです。
そしてたしかに、A村には「牛の頸」という奇妙名前の祭りがありました。
豊穣祈願のために、年に一度、一頭の牛を追い、それを食す祭りとのこと。
ただ、上の事情があってのことでしょう、
その祭りの詳細については書かれていませんでした。
しかし、あるときの恐ろしい事実のみ、参考に記されていました。
明治時代、何年にもわたる飢饉が起こりました。
その村(A村の隣村)にもかなりの死者が出ており、
もちろんその隣村では牛のような家畜を飼育する余裕もありませんでした。
ところが、A村では、飢饉のときも相変わらず、
「牛の頸」がおこなわれていたというのです。
誰かが確かめたわけではありませんが(わざわざ行きたいとも思わなかったでしょう)、
A村の周辺の村々には、そんな噂が流れていました。
その飢饉の最中、A村に一頭の「牛」が逃げ込んできました。
ただの牛ではありませんでした。
牛の頭に、人間の身体が生えているのです。
「牛」は叫びながら助けを求めていました。
みんな何事かと恐ろしく、外に出ていきませんでした。
「牛」は、ある家に飛びこみ、土間の上に倒れました。
家の主人がよくよく見ると、牛の頸をかぶった男だったのです。
男は傷だらけで血を流していましたが、あまりのことに主人は何もできないでいました。
すると、そのすぐ後から、男が数人、続いて家に入ってきました。
男たちは、黙って「牛」を捕まえると、主人のほうをジロリと見ると、
何もいわずに連れていきました。
少し物語風に脚色してしまいましたが、
その帳面に書かれていたのは、それだけでした。
「まさか、牛の頸とは」
役場の人に尋ねました。
「おそらく、そういうことだったのでしょう」
私は、それ以上詮索できませんでした。
県の事務所に帰り、報告書をまとめました。
気づいたのは、そのときでした。
どうして、周りと交流のない村だったら、村人全員の墓があるのはおかしくないか?
隣村の記録は虚偽ではないのか?
「牛の頸」はA村“内部”の祭りなのか?
そもそも「牛の頸」という祭りはあったのか?
「牛」を追っていたのは、本当にA村の人間だったのか?
もちろん、哀れに思った隣村の誰かが最後の墓を建てたのかもしれません。
それでも私は、ある観念を捨てきれないでいるのです。