26 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2011/12/12(月) 00:01:00.50 ID:YO6fGQSv0
「本当に死刑にされると思ってドキドキしたぞ。メロス」「すまなかった、セリヌンティウス」
「その間ずっとお前の事を考えてたぞ…」
「そ、そうか…」「時にメロス、吊り橋効果を知っているか?」
「何の話だセリヌンティウス」
「メロスは今好きな人とか、いるの?」
「だから何の話だセリヌンティウス」.
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コメント一覧
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懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも
戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と
心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と
お願いする。
往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海に向かった檀を、太宰は
大歓迎する。檀を引き止めて連日飲み歩き、とうとう預かってきた
金を全て使いきってしまう。呑み代や宿代も溜まってきたところで、
檀を人質にと説得し、太宰は東京にいる井伏鱒二のところに借金を
しに行ってしまう。
数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀は、
宿屋と飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、
二人はのん気に将棋を指していた。太宰は今まで散々面倒をかけてきた
井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいた。激怒しかけた檀に
太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。
後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が
少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。」と
『小説 太宰治』に書き残している。(wikipedia)
※4
あの時代の随筆や私小説読めば、この手の話はザラにある。
太宰ひとりがこうだったわけではないよ。
とんでもない連中で、だからこそ胸を打つ作品が残せた
のだと思う そういう人が生きていられた社会風土もあった。
食通と陶芸で知られる魯山人は年を取ってから陶芸を始めたが
名が知られるようになってから、ある美術館で行われた、
ある作家の陶芸展を見に行き「こんなものは陶芸ではない」と
いって、もっていた杖でいくつかを叩き割ったことがある。
いまの世の中であれば即逮捕というところだろう。だが
魯山人だからお咎めなし。そういう風潮がありえた。
上のエピソードに登場する檀一雄もとんでもない人だったし(映画
火宅の人」参照)、海外だってアルチュール・ランボーやベルレエヌが、
もし今の世の中に生きていたとしたら、数々の素行不良のために
社会的に抹殺されて、とても名前が残る作品は書けなかったと思う。
芥川賞を獲った田中氏もそういう傾向の人だと思うけど、それでも
まったく柔らかい。
それ教科書には載ってないらしいな
「例を出せ」と言われたら困っちゃうけどさ。
例えば?
「働けど働けど我が暮らし楽にならず」と言った文学者もいたな
文人には社会性のない人も多いと思う
菊地寛は?
直木賞、芥川賞設立に尽力したし
そうなりきれない「いい人」の部分が惜しい。
ほとんど全部読んだが。そこが彼の言う「士農工商SF屋」
ということなんだろう。
岩手県民のDQNっプリをあらわすエピですな。